「ここがマトリックスだ、ここで跳べ…?」

マトリックス レザレクションズ」を観た。前回の感想の続きです。

青い薬でも赤い薬でもなく…。「マトリックス レザレクションズ」におけるバッグズのやり方について。 - takayuki0929’s diary https://takayuki0929.hatenablog.com/entry/2022/01/22/071655

 

 「ここがロドスだ、ここで跳べ!」とはイソップ寓話にある話の中で、ロドス島のスポーツ大会で跳躍の新記録を出したと自慢する男に、それを聞いた人たちが「ではここがロドスだと思ってここで跳んで見せろ」と迫った台詞である。一方マトリックスの世界に閉じ込められた「レザレクションズ」のネオはこれと対照的に、当人がいわば「これは夢だ、この屋上から跳べ!」という強迫的な衝動に苦しんでいるのを周囲の人が制止している。もし本当に「これ」が夢ならば、私は高層ビルの屋上から跳んだって死なないだろう。ネオにとってビルから跳ぶか跳ばないかということが「これ」を夢と現実のいずれとして見做すかと重なっている。跳べないのならネオはカフェで出会った憧れのトリニティーを諦めて「普通の現実」を受け入れるしかない。

 さらにこの踏み絵のような二者択一は信仰が人間の認識ではなく行為遂行の水準にあることを示唆している。どんなに退屈で気に入らなくてもこれが現実なのであって、妄想上の人物と会話して逃避を図るのは精神的に不安定になっている証だともちろんネオにはわかっている。だからネオはカウンセラーにも「これが現実ではないんじゃないかという妄想に悩まされているんです」と話し、処方してもらった青い薬を飲んで気持ちを鎮めている。だがネオはなおかつ「これが現実だと頭では分かってはいるのだが、しかしそれでもこれが現実だとはどうしても思えない」ので、屋上から跳ぼうとしてしまうのである。

 クリストファー・ノーランの「インセプション」においても、夢から現実へと覚醒するための契機として夢の中での死というルールが適用されており「夢から醒めるために死ななければならない」という全く同じ強迫的衝動が登場したが、現実の世界において飛び降りてしまっては本当の死を迎えることになるのだからそれを周囲の人間が制止するのは当然のことだ。

 

 結局、この押し問答は決着しない。当人にとっては跳ぶことがつねに正しく、周囲の人間にとっては跳ばないことがつねに正しいというすれ違いが生じているからだ。どういうことか?

 まずネオ本人にとって、これが夢である時、跳ぶことによって外的現実へと覚醒するのだから跳ぶのが正しい。そしてこれが現実そのものであったとしても、そこで夢が醒める=この暫定的現実が終わるという点である意味で問題は解消する。やはり、夢だったのだ、これは…。

 次に、周囲の人間にとって、これが本当の現実であるならばネオの跳躍を制止せねばならない。人の自死をみすみす見逃すわけにはいかないだろう。そしてこれがネオの見ている夢であるのであっても、やはりネオ以外の人間にとっては(つまり夢の住人にとっては)これは現実と変わらないのであって、世界を終わらせないために夢の終わりを延期しなければならないのだから、跳ばせないことは正しいのだ。

 どの、夢かもしれない世界においても、「私」にとっては跳ぶことが正しい=暫定的な夢にすぎないと疑うことができる上に、その疑いは問題の構成を解体する正当なものであり、「私以外の全ての人」すなわち言語的現実にとっては、跳ばせないことが正しい=この望ましくない世界こそ対他的存在としての<私>のための外的現実そのものである。

 したがって、「私」にとっての、どの偽物の世界でもよいのだが、いずれかの任意の世界を本当の現実として扱うことにして、その世界における「私以外の全ての人」と共にあり彼らに対する責任を引き受けることこそが現実を生きることに他ならない。

 ウィリアム・イェーツの詩集『責任』のエピグラフに「In dreams begins responsibility」の一文がある。夢の中から責任は始まる。どの夢でもよい、これをあたかも現実であるかのように取り扱うこと。それだけが私たちをここに繋ぎ止める契機となる。

ご挨拶

 なんと、g.o.a.tがサービスを終了するのだという。デザインが気に入っていたので、とても残念です。短い間でしたが大変お世話になりました、ありがとうございます。

 しかし、仕方がないので、はてなブログに引っ越しをすることにしました。今後、こちらで更新をしていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。

https://takayuki0929.hatenablog.com/

青い薬でも赤い薬でもなく…。「マトリックス レザレクションズ」におけるバッグズのやり方について。

マトリックス レザレクションズ」を観た。マトリックスシリーズについて、僕は1と2を観たはずだがあらすじがほとんど抜けてノリしか覚えておらず、3は未視聴である。したがってずいぶんふわふわした理解でものを見ているのであしからず。

 

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 荘子に「胡蝶の夢」というよく知られた説話がある。あるとき荘子は夢の中で蝶に変身し、思うままにひらひらと空を舞っていた。目が覚めると自分は荘子であって蝶ではなかったことを思い出した。夢の中では自分が荘子であることなど忘れていたからだ。…しかし「こちら」が外で「あちら」が内だと、どうして言えるのだろう。荘子が胡蝶となる夢を見ていたのではなく、今まさに「本当は胡蝶である私」が荘子に変身した夢を見ているのでないのだと、誰に言えるのだろう?

 ここで荘子の要点は二つある。ひとつは、構造的に言って夢の内側から外側はわからないということだ。私たちはいつも状況の内側に閉じ込められていて、視界を遮るもののない俯瞰的な視座に立つことはできない。私たちは「これ」が夢ではないことを原理的に証立てることができない。

 そしてもうひとつは(万物斉同を唱えた荘子からすれば本来こちらが主眼なのだろうが)、ここで胡蝶も荘子も「私」ではないということである。夢の変転は無限に続き、「私」はそのつどの具体的な現れを抜け出して外側の世界へと醒めることができる。だからそのどれも「私」そのものとは一致しないのである。理想的同一化の点としての「私」とは、無数の夢におけるどの像とも符合しない不可能な影、光を飲み込んでしまう「鏡の裏箔」のようなものだ。

 

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 映画「マトリックス」の基本構造はこうである。主人公の青年ネオが青い薬と赤い薬のいずれを飲むか迫られる。青を選べばこれまでどおり「普通の現実」に生き続けるだけだ。赤は、ネオを本当の現実の状態へと覚醒させることになる。実はネオが生きる世界はAIによってコントロールされたバーチャルリアリティであり、人々は集団的な夢を見せられているのだ。荒廃した外部現実において眠りこくった人間の身体はAIにエネルギーを供給する電池として使われている…。

 ラナ・ウォシャウスキー監督による「レザレクションズ」は、マトリックスシリーズ第4作に当たる。今作は、前作「レボリューションズ」と筋が繋がらないままにストーリーが始まる。主人公ネオとヒロインのトリニティは人類救済と引き換えにして自らの命を犠牲にしたはずだったのだが、ネオはゲームクリエイターとして、トリニティは平凡な主婦として、互いに無関係な他人として暮らしている。この世界でネオは、ゲーム「マトリックス」を作った世界的なクリエイターとして成功しており彼は生活に概ね満足している。ただ時折彼の脳裏には、ゲーム世界におけるリアルな記憶が浮かぶことがあり、「自分は現実とゲームの区別がつかない精神疾患なんだ」と自覚してカウンセリングに通っている。

 もちろん今回もまたネオは偽の現実に生きていたのであって、仲間に助けられて赤い薬を飲み本当の現実へと覚醒したネオは再び自分とトリニティーがAIに囚われていたことに気がつく。助かったネオは選択を迫られる。リスクを冒してマトリックスの世界に残された(つまり機械に脳を繋がれたままの)トリニティーを救うのか、隠れ住んでいる人類の安全を優先して彼女を諦めるのか。

 残された人類の、外部から隔離された安全な共同生活を守るためにトリニティーを犠牲にするべきだというナイオビ将軍の「リアリズム」には既視感を覚える。身体的接触を避けてウィルスからの自己隔離をできる人間と他者と直面させられるエッセンシャルワーカーたちとのコロナ禍における意識化されない切断に類似しているのだ。私たちの自粛がエッセンシャルワーカーの曝露に依存するように、マトリックスの外的現実における慎ましやかな生活自体がすでにして救済者ネオという希望の幻想に依存しており、それなくしては人々の行動は倫理的に基礎付けられずそもそもコロニー「アイオ」の維持が不可能なのだとしたら?

 「私」の立場が「胡蝶」でも「荘子」でもないように、弱者を救うための本当の連帯の可能性はマトリックスの夢の中にもアイオの「必要な犠牲」の上に営まれるリアリズムにもない。唯一の希望は、バッグズが導く「不可能なはずの第三の道」である。

原因の根を断つこと――「換喩的世界」としての『シャイニング』論

 今日ではめっきり数が減ってしまったが、私が子供の時分にはデパートの屋上に「アドバルーン」と呼ばれる広告気球が浮かんでいた。気球からは垂れ幕が下がり、デパートで実施される工芸品の展示や物産展などの催し物の案内をしている。通行人が案内の文字を読むことができるのはもちろん垂れ幕が同じ位置に留まって動かないからだが、気球をただ飛ばすだけではそうならない。ガスを充填された気球が浮かび上がろうとするのを、デパートの屋上から張られたロープによって繫留してあるのだ。

 ではもしも、そのロープを断ち切ったらどうなるだろうか。気球はガスの浮力によって上昇し、いつか風に捉まるだろう。そして、デパートの屋上から次第に遠ざかっていく。青空にぽつんと浮かんだ気球が来たるセールの開催を訴えていたとして、それを読んでしまった私たちは当惑するに違いない。「つまり、何を言いたいんだ?」生憎、垂れ幕の文言からはそれがどこのデパートが発出するメッセージであるのかとか、どうしてデパートがそういうメッセージをあなたに送ろうとするのかといった情報が省略されているから、真意は正しく伝わらない。メッセージはビルの上空に浮かんでいることが前提になっているので、気球がそこから離されてしまっては、それを読む人には受け取るべき内容を一意に定めることができない。

 スティーブン・キングによる小説『シャイニング』は1980年にスタンリー・キューブリック監督により映画化されたが、原作者であるキングはこの映画を「エンジンのないキャデラックだ」と厳しく批判した。キューブリックがキングの原作から設定をいくつも変更したことが気に入らなかったのだ。

 キューブリックによる『シャイニング』の改変を許せなかったキングは、わざわざ1997年に権利を得て同作をテレビシリーズ化している。これは、作品の原作者が舞台に出てきて「この作品の真意が誤読されている。本当に伝えたかったことはこういうことなんだ」とお節介にも観客に作品の受け取り方を教授した形になるが、今回考えようとしている私の疑問は、このことの周囲にある。

 映画『シャイニング』における設定の変更は作品の「誤読」や、キューブリックの美的こだわりに基づいた恣意的な「改竄」にすぎないのか。そもそも主人公ジャックはなぜこれほどまでの徹底した狂気に至ったのか。しかもなぜ監督は、ジャックが狂った理由を映画全体のストーリーを用いて明示的に語らせようとしないのか、いや、むしろその理由を語らせまいとしているかにさえ見えるのか。

 作家志望のジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)は、職を求めてロッキー山中にあるオーバールック・ホテルを訪れる。これから深い雪のために来春までロックアウトされるホテルに泊まり込んで、設備の継続的な手入れをする管理人の仕事に応募してのことである。採用面接の際、ホテルの支配人アルマン(バリー・ネルソン)はホテルのある「いわく」について付言する。「以前の管理人であるチャールズ・グレイディ(フィリップ・ストーン)という男が、ホテルでの孤独に耐えかねて気が狂い、妻と双子の娘を斧で惨殺した挙句に猟銃で自殺した」のだという。しかしジャックは気にも留めず管理人の仕事を快諾する。

 ジャックの家族は、妻ウェンディ(シェリー・デュヴァル)と幼い息子のダニー(ダニー・ロイド)である。ダニーには超能力がある。その超能力「シャイニング」は、どうやら近い未来の出来事を予見できるらしい。シャイニングは普段、「トニー」というダニーの別人格として現れていて彼と会話することができる。ジャックが仕事の契約を交わしたとき、ダニーは「シャイニング」によって、ホテルのエレベーターから大量の鮮血が溢れ出るビジョンを見る。ビジョンはダニーにオーバールック・ホテルを満たす邪悪な気配を伝えているようだ。

 ホテル閉鎖の日、料理長ハロラン(スキャットマン・クローザース)はダニーとウェンディをホテル内の施設へと案内する。実はハロランもまた幼い頃から「シャイニング」の能力を有しており、同じ能力を持つダニーに「237号室に近づくな」と警告する。

 雪に閉ざされたホテルでの生活が始まるが、ジャックの作品執筆はなかなか捗らず、彼は次第に精神的に追い詰められていく。そしてついにジャックは、謎の存在に命じられるままホテルからの退路をすべて断ち、家族を殺そうとする。「シャイニング」によって異変に気が付いたハロランは、外界からほとんど完全に遮断されたホテルへとなんとか駆けつけるものの敢え無くジャックに殺されてしまう。万事休すかと思われたが、ダニーが機転によってジャックを庭園迷路へと誘い込んで凍死させることに成功する。そしてウェンディとダニーはハロランが運転してきた雪上車に乗ってホテルを脱出する。結局、ジャックを狂わせたものは何だったのかがはっきりと示されないまま、「1921年7月4日」と印字された、オーバールック・ホテルの舞踏会を撮影したモノクロ写真のアップで映画は終わる。写真にはジャックそっくりの男が写っている。

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 何がジャックを狂気へと追いやったのだろう。映画からジャックが狂気に至る「原因」を分析するアプローチは、大別して二つある。科学的合理主義に立ち「病原」への還元を図る方法と、ロマン主義的に狂気の発現へ亡霊の「呪い」を幻視する姿勢だ。例えば、合理主義的還元からは、作家になる夢を叶えるために小説執筆に取り掛かるが捗らないという心理的プレッシャー、豪雪のために外界から隔てられたホテルの閉鎖性、原作ではジャックが前職を失う原因にもなったアルコール依存症の発作、家族を養わなければならないという責任感、家族に対して抱く苛立ちと暴力衝動などが挙げられるだろう。そしてロマン主義的幻視によっては、前任のホテル管理人による家族惨殺事件の記憶がもたらす悪い気の流れ、237号室から漏れ出す悪霊の誘惑、ホテル建設のために墓地を潰されたインディアンの祟り、かつて煌びやかだったホテルに渦巻いていた欲望の残滓などが指摘できる。

 しかし、そのいずれのやり方によっても「雪山で父親が狂気に侵されて家族を惨殺する」という筋書きが、どうみてもあり得そうにないにも関わらずなぜ観客をすっかり納得させるのかを説明できない。つまり、上のどの理由によっても、「納得」まで説明が届かないのだ。

 この謎を考える前に、まずはジャックの狂気について、キングの側から見てみよう。キングは原作小説『シャイニング』を書く上で、特に主人公ジャック・トランスの造形に力を注いだと考えられる。それは、ジャックが現実の作者自身の「身の上」を投影された分身と呼べるくらいに類似する性質を備えたキャラクターとしてデザインされていることによる。キングの生い立ちについて、映画評論家の町山智浩は次のように書いている。

 キングに父の記憶はない。彼が二歳の頃、父はいつものように「ちょっとタバコを買いに行ってくる」と言って家を出て、それきり帰らなかった。

【中略】

 父がキングに遺していったのは不安だけではなかった。

 キングの父はH・P・ラヴクラフトをはじめ、さまざまなホラーやSFのペーパーバックや雑誌を置いていった。それに各雑誌からの不採用通知。父は小説家志望で、いくつも雑誌社に原稿を送り、「残念ながら掲載できません」という通知を受け取り、それを保存していた。父は原稿を保存していなかった。母も読んだことはなかったが、作家になりそこねた理由は知っていた。「お父さんは忍耐が足りない人だったの。だから私たちを捨てたのよ」。その言葉はその後、ずっとキングの耳に響き続けた。

 小説への興味、作家への夢は父からの遺伝だった。では、家族を捨てた性格まで引き継いでいるのでは? その考えはキングをずっと恐怖させ続けた。

引用元:「キングと父になること」『kotoba』2020年夏号、集英社 (2020/6/5)

 

 キングは父親との関係をうまく築くことができなかった。そして、オイディプスの神話のように自分の血肉にかけられた呪いの予感を抱いていた。いつか自分もまた父のように全てに耐えられなくなる日が来るのではないか、突然に小説への興味と作家になる夢と愛する家族を捨ててしまうのではないだろうか。いつもキングは自分自身に対する「一切を投げ出してしまうのではないか」という不安に苛まれていて、その辛さから逃れたくてアルコールに頼ってしまう。この「呪い」と対決するためにキングは、自らの精神の耐久性を調査する思考実験として『シャイニング』を書いたのではないだろうか。父と自分自身の分身としてジャック・トランスという作家志望の男を設定し、彼を、夢と生活と家族のプレッシャーが最大化する状況へと追いやった。情況の圧力が極大化したとき、それに耐えきれず彼の精神は潰れてしまうのか、それとも彼自身の愛と意志による抵抗力が勝って彼を押しつぶそうとする諸力を跳ね返すことができるのか。キングにとって『シャイニング』は、自分を信じられるかどうかを確かめる厳しい実験である。

 だから、原作にあった、ジャックが狂気に打ち勝つシーンをキューブリックが映画から削除してしまったことはキングには受け入れがたかっただろう。その削除されたシーンとは、小説の終盤にあるジャックのセリフである。狂気に駆られたジャックが槌を振り回して家族に迫る。まさに彼が息子のダニーへと槌を振り下ろそうとした一瞬間だけ、父は我に返り、息子に対して「ここから逃げるんだ。急いで。そして忘れるな、パパがどれだけおまえを愛しているかを」と呼びかける。諸力が襲い掛かりジャックの精神を押さえつけるが、意志によって彼はそれに耐えて可愛い我が子を助けるという古典的な人間賛歌の再演が、思考実験の答えとして描かれていたのだ。このシーンを除いてしまっては、観客は救いによるカタルシスが得られないし、映画は物語としての決着を失うのではないか。

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 さらには、キューブリックは「愛と意志の勝利」という「答え」ばかりではなく、「狂気に至る圧力」という「問い」までをも映画から切除しようとしているらしい。それは、幻のエンディングシーンの削除である。現在視聴することのできる『シャイニング』には、143分の北米公開版と119分のコンチネンタル版の二つのバージョンがあるが、実はもう一種類フィルムがあったのだという。映画公開後、劇場において5日間のプレミアの間だけ上映されていたが、監督によって編集、破棄されてしまったので現在では観ることのできない146分の初公開版がそれである。

 特に注意を向けるべきなのは、この146分の初公開版から143分の北米公開版へと再編集される過程でカットされたエンディングシーンである。

 その本来のエンディングは次のような筋だったという。「オーバールックホテルから逃げ延びたウェンディとダニーは入院して治療を受けている。二人をホテルの支配人アルマンが見舞いに訪ねてくる。アルマンはダニーに『君にこれを渡すのを忘れていたよ』と言ってテニスボールを投げて寄越す。」このテニスボールは映画の中で霊的な存在とのコミュニケーションを暗示している。ボールは映画のここまでのシーンで二度登場している。一度目には、映画の序盤で仕事に煮詰まったジャックが気晴らしに壁当てをするのにこのボールを用いる。次に、ホテルの廊下で遊んでいるダニーのもとにどこからか転がってきて、ダニーをいわくつきの237号室へと誘う罠として働く。つまり、削除されたエンディングでアルマンがテニスボールをダニーへと投げて寄越すカットは、彼がホテルの悪霊のメッセンジャーとして働いていることを意味していたのだ。

 この本来のエンディングを削除することによって、ジャックを狂気へと追いやり、彼を操って家族を惨殺させようとした「犯人」をホテルの悪霊と同定することができなくなる。キューブリックのねらいは正にそこにあるのではないか。ジャックの狂気に唯一排他的な外在的原因があれば、ジャックたちは「被害者」でいられる。原作小説のように惨劇の原因が特定され、それとの対決が構図化されることによって、エンターテインメントが観客を満足させるために必要とする明白な物語と解決のカタルシスが得られる。そうであるならキューブリックによる改変は物語の成立根拠を掘り崩すような致命的な悪手に見えるが、原因の切除こそがねらいだとは、どういうことなのか。

 改変の行く末へと目を転じよう。狂気の原因が特定できなくなることによって何が起きるのかと問うのだ。唯一排他的な原因の特定があれば「何が起こってもおかしくない状態」から正常な因果関係が回復され、家族は元の生活へと帰ることができたのだが、それが頓挫する。そして「なぜジャックは狂ったのか」という問いによる原因の探索は継続されるが、次々に対象を変えながら無限に回付され「終わり=特定/一致」へ至ることがない。同じことを関係者の側からみれば、ジャックを狂気へと追いやった罪悪感が浮遊し、しかもなぜ今人が狂うのかわからないままなのだから、誰もが狂いうる可能性へと開かれることになる。外在的原因を切除することによって、全員が悪夢のようなゲームに囚われて知らず知らずの内に自分の「借金」を清算してしまいそうになる状況に置かれる。こうした一致のない宙吊りのリアリティが、私たちが生きる現代における生の感触を正しく描いているから、この映画には説得力があるのだ。

 

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 さて、外在的原因の切除によって話の筋の一本化や意味の特定の試みは座礁するが、その不可能な探索は不可能だからといって停止せず無限に働き続けることになる。雪に閉ざされたオーバールック・ホテルのように、外界との繋がりが断たれたシニフィアン(意味するもの)の連鎖による参照は、情況の内部へと向かうしかない。この、内向する無限参照の、映画における表象は「鏡」である。

 『シャイニング』の劇中では、鏡や、鏡を暗示する対称的な表象が繰り返し登場する。それを以下に羅列する。

 ①ダニーがオーバールック・ホテルを訪れた日、遊戯室で双子の少女と出会う。

 ②ダニーとジャックが客室で「パパは眠らないの?」「ダニーはホテルを気に入ってくれたかい?」と問答をする場面では、室内の鏡にジャックの姿が映り込んでいる。

 ③ダニーが、いつの間にか解錠された237号室に誘い込まれようとするとき、開いた扉の隙間から見えるのは鏡越しの室内である。

 ④鏡を通して、ジャックが237号室で出会った美女の正体が、腐乱した老女の遺体だったことがわかる。

 ⑤ゴールド・ボール・ルームでのパーティでジャックが酒をこぼされた後、手洗い場の鏡の前でグレイディからダニーを「厳しく躾ける」よう忠告される。

 ⑥ダニーが客室の扉に書く「REDRUM(赤い羊)」という言葉は倒語(逆さ言葉)で、その真のメッセージ「MURDER(殺人)」は、鏡を通して字を反転することで読むことが出来るようになる。

 すぐに、映画の中で鏡は常にジャックかダニーと関わる形で登場することに気が付くに違いない。そして閉ざされていたはずの237号室の鍵がいつの間にか解錠されていた謎と、食品倉庫に閉じ込められたジャックがなぜか脱出できた謎が、残されたままでいることを思い出す。ここまで来て、私たちは、映画がそれと明言しないがそうとしか受け取ることのできないような強い信憑をもたらす「ある解釈」にたどり着く。すなわち、ジャックとダニーが鏡写しの存在として描写されていること、有り体にいえば、象徴的現実の水準において両者が同一人物だという解釈である。ジャックの妄想(心的現実)の中で、バーテンダーのロイド(ジョー・ターケル)の提供している酒がジャック=ダニエルであることもその傍証になるだろう。

 すると『シャイニング』は、ある人物が自分自身を殺害するというメビウスの環のような循環構造を持つ物語であることになる。

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 映画『シャイニング』の話の筋は手塚治虫による漫画『火の鳥(異形編)』と類似しているといえる。

 『火の鳥(異形編)』の舞台は室町時代の日本である。左近介は残忍な領主八木家正の娘に生まれたが、女ながら武士として育てられた。父親が病で死ぬことを願った彼女は「どんな病でも治せる」という評判を聞いて家正が治療を頼んだ八百比丘尼を斬ることを決意する。そして尼を殺した左近介が城に戻ろうとするも不思議な力が働いて寺から出られなくなる。八百比丘尼の力を頼って次々に訪ねてくる傷ついた異形の者達を、左近介は尼の代わりに火の鳥の羽を使って癒やすようになる。

 『火の鳥(異形編)』においては、正常な因果関係が停止し物語が循環構造を描いている。左近介は八尾比丘尼を殺した罪を償うために傷ついた者達を癒すが、そもそも何者をも分け隔てなく癒す八尾比丘尼がいるので左近介はその人をわざわざ殺しにやってくるのである。このとき、癒すことによる償い=結果が、殺すことによる罪=原因を追い越して先行している。殺すから償うのではなく、償っているから殺されるという転倒した構造が見て取れる。

 これと同様に『シャイニング』では、ジャック=ダニーはオーバールック・ホテルを二度訪ねることになる。一度目にはダニーがホテルでジャックを殺して罪を被る。そして二度目にジャックとして再度ホテルへやってきて、ダニーの手で殺されることによってその清算をしなければならないのだ。

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 このように整理すると、「何がジャックを狂わせるのか」、「なぜジャックはホテルの主人の立場として迎えられるのか、また、なぜ物語の途中からグレイディと立場の上下が入れ替わってしまうのか」、「なぜダニーはジャックから逃げ果せることができたのか」といった問いを簡単に解くことができる。

 ジャックが狂うのは、ジャックが狂っていなければダニーによるジャックの殺害が正当防衛にならないからだ。だから帳尻を合わせるためにジャックは狂わざるを得ない。ジャックの狂気はあらかじめ勘定に入れられている。

 そして、ジャックの立場の変化、ホテルのことを何でも知っていて「見渡す」ことのできる立場の喪失は、映画の途中でホテルのオーナー権がジャックからダニーへ移譲されることによる。その契機はウェンディがジャックの原稿を読み、「All work and no play makes Jack a dull boy.(仕事ばかりで遊ばない、ジャックは今に気が狂う)」という文言が繰り返しタイプされただけの出鱈目な内容であることが判明することだろう。ジャックは作家の夢という表象が空虚であることを「見られる」ことにより、視線の弁証法に巻き込まれる。作家志望の男というナルシシズム的な見せかけが全くの無にすぎない事実を突きつけられることで状況へと「関与」し、彼は「知っているはずの主体」の立場を失う。映画の序盤にあった、ホテルのロビーでジャックが庭園迷路の模型を覗き込むと本物の迷路を歩くウェンディとダニーが歩いている様子を見下ろすことができるという眩暈のするような映像描写がオーナーとしてのホテルを俯瞰する視線を表すものであるなら、物語の末尾でダニーを追って跛行するジャックがまなざすような、地を這うローアングルショットはゲームのプレイヤーとしての部分的な視線に対応する。

 また、ダニーが雪の上に残る自分の靴跡を消し去ることでジャックの追尾をかわすシーンは示唆的だ。循環する時間のなかでジャックは、過去の痕跡を意味づけようとする未来における解釈の位置に立つことでリビドー的な力を賦活されていたのだが、ダニーがそれを拭い去ることで優劣が逆転する。ダニーの足取りを辿ることができなくなったジャックは未来の視点を逐われて「ダニーのいる現在=ジャックにとっての過去」に滑り落ち、凍えるような同一性の迷宮に取り残される。メビウスの環の中で縮減して内包されていた時間がジャックの元に跳ね返ってきて、彼を「1921年7月4日」という時間へと弾き飛ばし、閉じ込めてしまう。無限化された時間が無時間へと転化するエネルギーを想像すれば、写真に記された日付の不整合はすんなり解消できるのである。

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 コミュニケーションにおける発話内容の意味認識の構造と、体験の反省における出来事の原因認識の構造は類似している。その対象が持つ真実の意味は何かと関心を抱いたときに、それを明らかにしようとする探索が起動し、「一致」をみるまで決して停止しない。だから、それに真実の意味をもたらしている外在的な源泉がその項目と切断されると、自己の内部に参照の目を向けたまま無限に回付され続けるパラドックスに陥る。

 キューブリックはあたかもアドバルーンの繋留を解くように、『シャイニング』における話の筋を改変してジャックに狂気をもたらした原因を特定不能にしてしまう。ビルの屋上を離れていく気球に気が付いた広告担当は慌てて怒鳴り込んで来るが、今やあらゆる風船が宙を漂っているのではなかったか。

参考文献:

 加藤典洋著『テクストから遠く離れて』2020/4/10 講談社文芸文庫

 スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』1995/6/1 青土社

『竜とそばかすの姫』における現実描写について。「現実が仮想を保証する」関係を断つための『U』の仮想自己を可能にする「表現」としてのAs

 細井守監督による最新作『竜とそばかすの姫』の魅力は、現代社会における新しい現実感覚を描き、その倫理的可能性を提示しようとする志にある。そして、その試みのピークは二つある。一つは、トラウマのために歌を歌うことができない主人公すずが、仮想空間における「新しい自己」を得ることで存分に歌えるようになる「解放」の場面であり、もう一つは、やはりすずが「新しい自己」の成功を投げ打って(?)「竜」を救うために「現実の自己」を明かして誠を示そうとする「引責」の場面である。

 『龍とそばかすの姫』の物語上の主たる舞台となる仮想世界『U』においては「誰もがリラックスして集い楽しめるように、最新のボディシェアリング技術を採用し」ており、個人は「As=Autonomous self/自律的自己」と呼ばれるアバターによって仮想世界へ参加することになる。その、『U』が誇る最高のA・Iが行うAsの自動生成とそれをキャンセルする「アンベイル」という特別な技術について、作中人物ジャスティンは次のように語る。

「通常なら、デバイスで読み取られた生体情報は、特殊なプロセスを経て登録したAsに変換されます。ですがこの光(ジャスティンのみが持つ宝石のようなレンズ体から発出される緑色の光)は、その変換を一切無効にしてしまう。オリジンそのものがダイレクトに『U』の空間上に描写されてしまう。これがアンベイルのしくみです。創造主『Voices』しか持てない権限と同じものを私は持ってると、言い換えてもいい」

引用元:『竜とそばかすの姫』2021/6/25 細田守 角川文庫 P.203

 このジャスティンのAsの仕組みについての指摘は、注意深く受け取られる必要がある。ここで「特殊なプロセスを経て登録したAsに変換される」のは「デバイスで読み取られた生体情報」であって「あなた」ではなく、アンベイルによってダイレクトに『U』の空間上に描写されてしまうものが「オリジンそのもの」であって、それは「特殊なプロセスを経て登録したAsに変換される前のデバイスで読み取られた生体情報」でも「あなた」でもない。

 この微妙なズレこそが、細田によって掴まれた、観客が要求するディテールである。ズレは「現代(日本)社会における入り組んだ現実感覚」の再現に由来するものであるのだが、その機微を精確に理解するためには言語構造のモデルを参考にすることが有用である。

 言語学者ソシュールは言語を記号(シーニュ)として捉え、記号はシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)という二つの働きの関係性として存在するという見方を示す。例えば、ライオンという言葉について考える。ライオンという音のシニフィアンが、あの「百獣の王」と呼ばれる「タテガミのある野獣」というシニフィエと結びついている。

 次に、このモデルに従って「メタファー(隠喩)」と「メトニミー(換喩)」という二種類の喩(比喩)の構造を確認しよう。喩はただの記号とは異なって、二つの語の結合である。ライオンの例でいえば、ライオンというシニフィアンがそのままあの「タテガミのある野獣」を表さない場合がある。カメルーンのナショナル・サッカーチームはそのタテガミのある野獣のような強さから「ライオン」という愛称で呼ばれるが、このとき、ライオンというシニフィアンがそのまま「タテガミのある野獣」を表していない。このような言葉を喩と呼ぶ。

 喩はその機能から「メタファー」と「メトニミー」という二種類に大別できる。カメルーンのナショナル・サッカーチームのように意味内容(シニフィエ)を媒介にする語と語の結合が「メタファー」であり、そうではなく、表現形式(シニフィアン)を媒介にする語と語の結合が「メトニミー」である。

 ライオンというシニフィアンが「その名を冠した練り歯磨き製品」を指し示すことがある。これはメトニミーである。その歯磨き粉は別に「タテガミのある野獣」のようではない。獣の持つ何かしらの性質と類似するところがあるわけではなく、これはあくまで表現形式(シニフィアン)を媒介にする語と語の結合である。シニフィアンをSA、シニフィエをSEと略号に置き換えて、メタファーとメトニミーの構造を整理すると次のようになる。

メタファー:「ライオン(SA)」=「野獣(SE)」⇒「強い選手(SE)」=「カメルーンチーム(SA)」

メトニミー:「野獣(SE)」=「ライオン(SA)」⇒「ライオン歯磨き(SA)」=「練り歯磨き(SE)」

 

 メタファーはSE同士のつながりによる結合であり、メトニミーはSA同士のつながりによる結合であることがわかる。これらの喩のモデルに『U』におけるアバターの構造を重ねてみよう。

「現実自己(SE)」=「オリジン(≒生体情報)(SA)」⇒「As(SA)」=「仮想自己(SE)」

 このとき、アバターは、現実自己たるすず本人の存在がそのままAsに結びつくのではないし、仮想空間『U』でさまざまな経験を積む「ベル」という位格がそのまますず本人(現実自己)に重なる(結びつく)のでもない。あくまでオリジン(≒生体情報)がAsに翻訳される。それは表現形式のみにおける結びつきであるから、『U』におけるアバターはメトニミックに生成されているのだといえる。

 作中での現実自己とAsとの対応を確認してみよう。尚、ここでは、細田によって書かれ映画と同時に出版された小説版の記述を参照する。

 まず、ベルのAsはこう描写される。

「非現実的な、桃色の長い髪。海のように深い、青の瞳。文字通り、絶世の美女。そして頬には、まるで刻印されたような、そばかすがある。」

引用元:『竜とそばかすの姫』2021/6/25 細田守 角川文庫 PP.8-9

 カメラが現実に移行して、ベルに声を吹き込む作中現実のすずを写す。

「瞼を開けると、目の前にあるのはシーツの上の、表示の消えたスマホだ。その暗い表面に、日に照らされた自分の姿が映り込む。中学校の頃から着ている色褪せたダサいパジャマ。寝癖のついたボサボサの髪。半開きの目。そして、頬に散らばった、そばかす。それは私をとても憂鬱にさせる。胸がふさがれそうになって、ため息が漏れる。」

引用元:『竜とそばかすの姫』2021/6/25 細田守 角川文庫 PP.13-14

 身体的特徴としてすずとベルが重なっているのは「そばかす」のみである。そのほかのベルとしてのAsの特徴は現実自己と意味的なつながりを持たない。「いつも歌わないすずが、本当は歌が好きで上手だ」という事情を知らない第三者にはベルの正体がすずであるとわからない。

 では、他の人物におけるアバターの事情はどうなっているだろう。

 ルカちゃんとカミシンは次の通りだ。

「1曲目が終わり2曲目が始まると、すらりとした長身の美少女が、アルトサックスを手に前に出てきた。彼女は、キビキビと左右に魅力的なステップを踏みながら、ゆるいウエーブのかかった長い髪を揺らし、少しも乱れずにソロを演奏する。「……かわいい」思わず声に出して言ってしまう。ルカちゃん――渡辺瑠果と書く――の生き生きとした美しさに、ため息が出るほど見とれてしまうのだ。」

「カミシン――千頭慎次郎と書く――は、手にカヌーのパドル、背中に「CANOE」と書かれたのぼりを立て、手当たり次第にアピールしてゆく。まるで敵陣地に乗り込んだ足軽みたいに。」

「ルカちゃんAsは、青い鳥のAsで、アルトサックスを持っている。犬型のカミシンAsが背負うのは、大きなカヌーだ。」

 Asについて、ルカちゃんが青い鳥で、カミシンが犬であることは、やはり現実自己と意味的なつながりがない。(アルトサックスとカヌーという「アイテム」はA・Iによる自動生成以後に獲得したものと考えられる。)

「竜」=恵くんを見てみよう。

「突き出る二本の角。長い鼻面。鋭い牙と爪。特徴はまさに竜そのものであり、印象は暴力的な獣のようだ。それでいて襟を立てた深紅のマントや、スーツの袖から覗く白いフリルは、どこか貴公子的なものを連想させた。この真反対な性質が同居する不思議なバランス。長く縮れた髪の隙間にわずかに見える細く鋭い眼差しは、どこまでもミステリアスにわたしには思えた。」「「あ」ボロボロの背中に、たくさんの模様があるのに気がついた。「あれは……?」《これみよがしに背中のアザをアピールするウザい奴》とフキダシが付け加える。確かめるようにそれを見た。「あんなに、アザだらけなんだ……」」

「黒い服を着た別の少年の姿」「恵くんの乱れた髪の隙間から、固く閉じた目が、見えた。」「吐き捨てるように否定した。」

「父親は、言葉の暴力を恵くんの背に投げかけ続けた。まるで上司がミスをした部下を叱責するように。「おまえさあ、もう消えろ。な、消えろ。価値がないならもう消えろ!!」そのたびに、まるで本当に背中を殴られているように、恵くんの背中は震えた。」

 恵くんは、奥底に言いしれない怒りを堪えつつ、こちらを睨み続けている。

 こちら――、それはもはや私などですらなく、なまっちょろい世間、社会、世界に対してであり、無責任な言葉、無慈悲な態度、無寛容な心、弱者に対しての無自覚な見下し、そしてそれらを隠蔽する欺瞞。恵くんの眼差しは、そのすべてに向けられた刃のように、私には思えた。

「助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける!うんざりなんだよ!!」

 内在する怒りを全て吐き出すように、恵くんは、体を揺らして吠えた。

「もう出ていけっ!!」

 その恐ろしい目つきは、鋭い牙を剝いて吠えたときの、竜そのものだ。私は、あの時のベルと同じく、目を固く閉じて身を縮めるしかなかった。

 丁寧に見れば、現実自己とAsとのつながりはないことがわかる。話し方や行為への現実自己の反映はあるものの、Asは現実の恵くんと切断されている。ただし、すず=ベルの「そばかす」と同様に、恵=竜の「アザ」だけは異質である。

 さて、細田の慧眼は、Asの描写によって「仮想自己」を取り出した点にある。つまりその効果はまずもって、すずとしてできることややりたいこと、やるべきことと、ベルとしてのそれは一致しないし、ベルとして経験したことはそのままにすずという「現実主体」に送られるものではないというズレを描くことである。

 ベルはすずではない。トラウマによって歌うことができなくなったままでいたすずにとって、現実との意味的なつながりが切断されたベルという位格に「乗り込んで行動できる」ことは「解放」である。そこですずによって感じられている「自由」は、たとえば足に障害を持つ人が義足や車いすによって身体を延長して、できることが拡がったときに感じる自由におおよそ似ているが、異なるところがある。すずが歌えないのは、身体のどこかに「部分的」に障害があるのではなくて、存在の「全体」に染み広がっている問題であって、患部(原因)にしかじかの内科的/外科的治療を施せば(代替えの身体的延長を補えば)それが解決するという性質のものではないという点だ。だから、Asという現実自己と「淡いつながり」をもつ仮想自己によって存在を丸ごと置き換える必要があったのである。

 もうひとつ、この手間のかかるAsという設定を用意したねらいはやはり、ベルが自らアンベイルを引き受けてオリジンをさらしたまま「竜」に向けて歌う場面を描くことだろう。

 結論から言えば、この場面は、多くの人がそう受け取るように「素顔を晒すことが倫理につながる」という考えによるものではない。

 

 確かに、一般の『U』参加者・作中現実の人間にとっての受け取りは、「あのベルが実はさえない普通の女子高生だった」となる。そこから逆算して、なぜ顔を晒すのか、「素顔を晒すことが倫理につながる。仮想世界という二次的世界は不確かな嘘なのだから、動かしがたい現実世界による保証が必要なのだ」という前提に基づくものだろうと考える。「仮想<現実」だ。

 あるいは、すずの身近な人(合唱団の、学校の仲間)にとっての受け取りは「あのすずがベルという成功した位格を投げ打った。歌えなかったのにトラウマを克服して乗りこえた。それは「竜」を助けたいからだ」。「ベルとしての「虚」の経験よりも現実世界でのすずと恵くんの経験の方が優先するのだから当然だ」と考えたのではないだろうか。ここでも「仮想<現実」だ。

 しかし、恵=竜にとっての受け取りは、それとは異なる。「さっき電話してきた女が実はベルだった。彼女の言っていたことは本当だったんだ。」となるだろうが、ここで、参照の向きが反対になっていることに注意を向けたい。恵=竜にとってはベルとの経験が、現実世界でのすずとの出会いに先行している。恵には、すずがベルになったのではなく、ベルがすずになったものと映るのである。現実のすずの身元を保証するのは、彼女がベルだったからである。ここでその重みは、「仮想>現実」と入れ替わっている。

 クラスラインでの炎上の場面のように、現実での関係がそのまま反映した仮想世界においても倫理が困難になっていることは細田によって指摘されているのだから、本作が素朴な「現実が仮想を保証する」という認識による表現ではないことは明白だろう。細田は、現実がその確かさを喪失した今、どのように倫理が可能なのかを問うているのだ。それを考える補助線として、現実自己と仮想自己が等値になるAsなる「準先験的生成」が描かれているとみるべきだ。そして、その、あらゆる「現実」が究極の根拠であることをやめた平行的・相対的複数世界における倫理の可能性は、現実の「主体」に代わる責任の帰属先(言論の普遍性への投企の起点)としての「仮想自己」にかけられている。

 実際には、倫理性は、仮想世界における『美女と野獣』の再演において実現する。この「ご都合主義的」な「不可能な愛の奇跡」は、すずの「そばかす」と恵の「アザ」と二人の快癒=現実的解決と結びついているが、すずがメロドラマに参加するのは、彼女が忍を拒絶する自分自身に投げかけた疑問「……私、どうしたいんだろ?」が動機づけているのだと考えられる。次稿ではこの謎を扱いたい。

参考文献:加藤典洋『テクストから遠く離れて』2020/4/10 講談社文芸文庫

バチェロレッテ・ジャパンにおける結末の考察――萌子さんの不可能な誠実さ

※この記事にはバチェロレッテ・ジャパンのネタバレが含まれますので注意してください。

 10月31日(土)に『バチェロレッテ・ジャパン (The Bachelorette Japan)』のエピソード8(9話)とアフターローズ(10話)を視聴しました。結末の衝撃に魂がゆさぶられてしまって、ちょっと何にも手がつきません。整理をつける意味で、僕なりの考えを文章にしてみようと筆を執りました。

 まず、前提です。バチェラーシリーズにこんなにハマると思っていなかったのですが、バチェラージャパンシリーズはすべて視聴しています。バチェラー3→1→2の順で観て(未視聴の方はこの順がおすすめですが1はちょっとマニアックなので後回しでもよいです)、今回バチェロレッテを観ています。好きなバチェラーは小柳津さんで、1ではゆきぽよと藍ちゃん、2ではあんきらと若様、3では汐美と遥推しです。バチェロレッテでは最初マッキー、途中からローズと杉ちゃん推しになりました。しかし、シリーズを通じた最推しはもちろん坂東さんです(ぜひ、シーズン1で柏原さんがグループデートの手紙を読み上げた場面でのリアクションと、モーニングルーティンの動画でバラの花束をトントンしているところをご覧ください)。

 はじめバチェロレッテ福田萌子さんのことはあんまり好きになれなかったのですが、(いつものように)エピソードが進むのにつれて友情のようなものを勝手に感じはじめ(残す男性の選択が結構一致していた)、アフターローズを観ながらめちゃめちゃ文句を言いつつも、結論からいえば萌子さんを擁護するべく本稿を書いています(9割否定的意見が続きますが)。最大の疑問は、萌子さんはなぜローズを渡さなかったのか、ということです。彼女は彼女なりの誠実さでそう決断をしていますが、それはどういう意味の誠実さなのか、考えてみたいと思います。

①ローズの意味

 マラカイの「『ローズ即結婚』ではないのだから、最後のセレモニーではとりあえず黄さんか杉ちゃんのいずれかにローズを渡すというのではだめだったのか」という指摘から考えましょう。ちょっと自己言及的だ(番組内で言っていいのか?)と思いつつも、マラカイの意見は至極もっともだと感じました。萌子さんもこれまでのバチェラーのように、まずはローズを渡し、選んだ相手としばらく付き合ってみてそれから結婚するかどうか判断するのであっても良い。2ヶ月というのは現実の恋愛においてはとても短い期間なのだから、番組が終わった後、いわばふたりの物話は次の「エピソード」に続いて、再度プライベートで「セレモニー」をやれば良いのだということです。それが「現実的」だろうというのは本当にそうだと思います。たしかに別に番組内の結論が法的拘束力をもつわけでもありません。

 ところが、マラカイの指摘に対する萌子さんの返事は、次のようなものでした。「私は考え抜いた結果、この結論にたどり着いた。ローズを渡してしばらく一緒に過ごしてみるということももちろん選択肢として考えたが、そのような中途半端な考えで相手を付き合わせることは不誠実だし、しばらく付き合ったとしても自分の考えは変わらないだろうとローズセレモニーの前に判断した。」「「(まず番組を成立させることを優先し)妥協してローズを渡せ」ということですか。私の人生を決めるのはほかならぬ私です。たくさんの批判があるだろうと予測はしましたが、考えを改めるつもりはありません。」

 ここに、それまでに提示されていた萌子さんの考えを加えることもできます。「私が次にお付き合いをする人は結婚をする人です。」「元カレとなぜ別れたのかわからない。相思相愛であったし、彼は私を受け入れてくれていたはずなのに結局は破局した。なにがあってもずっと変わらずに愛してくれる人でなければ、一生を添い遂げられる人でなければ、結婚はできないのではないか。」

 アフターローズでの対話において、ふられた男性陣と萌子さんは、面白いように話がかみ合いません。彼ら(と、たぶんほとんどの視聴者)が採用しているローズの意味と、萌子さんが前提にしているローズの意味が全く異なるからです。萌子さんが考えるローズの位置づけは、私たちが「そういうもの」だと思っているような穏当なローズの意味を厳しく斥ける徹底したものでした。

 マラカイたちは「最後のセレモニーで萌子さんはいずれかの相手にローズを渡すべきだ」と考えています。最後のローズセレモニー現在において、萌子さんがいずれの相手に対しても結婚に踏み切るほどの強い感情を抱いていないのだとしても、ローズを渡して番組終了後にお付き合いをしてみることで気持ちが変わるかもしれない。それは未決定であるのだから、好きになってみようと努めること、チャレンジしてみることが誠実なのではないか。番組内の虚構であるバチェロレッテとしての肩書を外した「素顔」の萌子さんを相手にさらけ出すべきではないか。彼ら(私たち)においては、「人心=変化するもの」であり「未来=不可知なもの」であり「番組内=虚構/番組外=現実」だという認識(価値観)が前提にあります。

 ところが、萌子さんは同じものを指してまったく違う認識をする。「セレモニーではいずれの相手にもローズを渡さないべきだ」。最後のローズセレモニー現在において、黄さんに対して彼からは「なにがあってもずっと変わらずに愛してくれる」というほどの強い愛を感じられないし、杉ちゃんに対しても萌子さんは人間としての敬愛を抱くものの、異性としての欲望(性愛)を抱けないから。萌子さんのいう「中途半端な」とは、純粋なロマンチック・ラブ・イデオロギー(結婚における愛・性・生殖の三位一体幻想)を尺度としたときの、結婚を前提にしない遊戯的恋愛に対する形容であり、「妥協」とは、現在の私が期待する「理想のパートナー像」に照らしたときの、候補者たちのステータス(パフォーマンス)に対する選択を言っているものです。萌子さんは、「人心(対人関係)=変化してはならないもの」であり「未来=完全に知りうるもの・あるいは考量に入れないべきもの」であり「番組内=番組外=現実」であると前提している。

 同じ語を用いてちがう話をしているのだから、話がかみ合うはずはありません。

②真実の愛とは何か

 男性陣と萌子さんにおけるローズ(あるいは番組としてのバチェロレッテ)の意味をめぐる対立は、杉ちゃんと萌子さんにおける真実の愛をめぐる一連の対話のなかでも形を変えて(表面上の衝突を避けながら)繰り返し現れています。

 台湾でのランタン飛ばしのデートにおいて、杉ちゃんは「愛とは何か」と萌子さんに問いかけます。萌子さんの答えは「生きる」であるのに対して、杉ちゃんの答えは「花びら」です。愛は花びらに似て、手を伸ばしても指の間をすり抜けていくけれども、追うのをやめて立ち止まっている人の手中に舞い込んでくることもあるようなもの。杉ちゃんに愛は、自由なコントロールができない「他者性」と深く結びついた概念として理解されています。対して、萌子さんの「生きる」は、生きていることそれそのものが愛だという自他に対する「手放しの肯定」のようだと、たぶんこの時点での杉ちゃんも視聴者も誤解をしています。しかし実はこれは、付き合う相手に「現在・現実の私」との完全な一致を求める究極にエゴイスティックな概念であることが次第に露呈していきます。言い換えると、このときの萌子さんの説明は、直後の杉ちゃんによる「花びら」の比喩のすばらしさに引きずられて、あらゆる経験の受動性に対する祝福のように聞こえるのだけれど、本当は、「私が生きる」こと自体の肯定、私の意識に対する世界の現れが愛であるという(ある意味ではとても正しい)独我論的な「世界=私=愛」認識だったのだということです。つまり、ここで萌子さんはランタンに「世界」と書いても、「私」と書いても、「今」と書いても差し支えなかったのだということになります。

 この、杉ちゃんが「他者」の側に立ち、萌子さんが「自己」の側に立つという真実の愛についての認識の対照は結末まで維持されます。

 杉ちゃんは、東京でのグループデートにおいて萌子さんに対して改めてはっきりと告白したのでした。「萌子さんのことを考えると成長できるし、変われるし、びっくりする明日になる。その明日が続いていったら多分びっくりする思ってもいない将来になると思うんですよね。この短時間でこれだから。毎日変わっていって、今の自分がすごく好き。なんでこんな風になれたんだろう。萌子さんのこと考えてたから。ね。生きるのにね、必要不可欠になっちゃったんですよ、平たく言うと。」本当に素晴らしい告白の言葉です。

 インタビューでも「彼女のことを考えていたらもっと頑張ろうって気にもなるし、萌子さんを鏡にして自分を見てる感じでもあるんですよね。萌子さんのことを考えてより自分が今日よりも明日、明日よりも次の日の方が少しでもマシになるにはどうしたらいいのかっていうふうにね。いろんな思いがつまっているんですよね、萌子さんという箱の中に…。」と語っています。

 ここで、杉ちゃんは、萌子さんが固執する「未来永劫、不変であるような確かな愛」を軽やかに否定しています。あなたのことを考えていると、私は私らしさを失っていく。でも、それが嬉しい。私はつねに変わりつつあって、それが嬉しい。未来がわからないこと、なにもかも失われるかもしれない可能性に開かれていることが、愛の条件ではないかと、杉ちゃんは考えています。

 そして、変化することが、不可知なことが怖くないのかという、萌子さんが杉ちゃんへ明に暗に投げかける問いに対する答えとして、彼は「リンゴの木」の比喩を持ち出します。「例えば『明日世界が終わるとしてもリンゴの樹を植える』っていうすごい素敵な言葉があるんですね、昔の哲学の人で。世界終わるなら種植えても苗植えてもしゃあないじゃんって人もいるかもしれないけど僕は植えたいし、明日終わるってなっても絵を描いてると思う。僕はね。」「明日世界が終わるとしても例えば僕だったらリンゴの木を植えるんだよっていうような。成果じゃないんだと、植えること自体が希望とかね、望みとか、祈りとかね、思って、やること自体がすでにゴールっていうか成果。それ自体がいちばん大事だって気がしてるの、僕は。」世界が終わるのだとしても、リンゴの木を植える。相手に拒絶されるかもしれないが、告白をする。愛はやがて醒めるかもしれないけれども、それでも恋愛や結婚へ踏み出すべきだ、そう杉ちゃんは考えているのだと受け取ることができます。

 杉ちゃんが萌子さんと自分を「鏡」のような関係ととらえるのは、バチェロレッテと参加者男性という上下の支配的な関係を、ただの男と女という水平の自由な関係に変換するまなざしです。互いに互いを拒絶したり否定したりするかもしれない「オープンな関係」にある両者でなければ、「真実の愛」を獲得することはできない。そのように杉ちゃんは考えるから、アフターローズで自ら萌子さんに「花びら」を手渡すのではないでしょうか(水平に選ぶ!)。

 萌子さんの語る「愛」は杉ちゃんの考えをすべて裏返したものです。「人は『合う合わない』があって、それがローズを渡す相手を選択する上での基準になっている。」「私が選ぶ側で、みなさんが選ばれる側である。」「決して変化することのない純粋で完全な、今、現実化している永遠の愛が欲しい。」

 萌子さんは杉ちゃんの言葉に何度も揺さぶられますが、しかし、結局は自己の同一性の呪縛から逃れられません。もしかするとそれは、番組にまったく現れることがないにもかかわらず彼女の価値判断の最終的な拠り所(または経済的自立の拠点)となっている萌子さんの「父」の影響があるのではないでしょうか。彼女のお父さんは「不変」な「自己」の「同一性」を前提した「幸せな結婚生活」を実現しており、そこで生まれ育った「娘」の萌子さんは、社長夫人である「母」にも、社長である「父」にもなりたいと願っているために、あのように頑なになってしまうのかもしれません(*1)。

③萌子さんはなぜローズを渡さないのか、あるいは不可能な誠実さについて

 ローズを渡さないという萌子さんの選択をどう評価すべきでしょうか。それが「許される」のか「認められる」のか、「妥当」なのか「本人のため」なのか、巷間かまびすしいですが、僕が重視したいのは「誠実さ」という価値です。番組内でも、特にアフターローズにおいて、たくさんの意見が飛び交いました。それぞれの立場はかならずしもはっきりと言語化されていないのですが、誠実さという価値から、話を整理してみたいと思います。(非常に入り組んでいます)

 1.番組後も、萌子さん自身が「心変わり」する可能性があるのだから、ローズを渡して結論を先送りにすべきだ。その可能性を追求することなく切り上げてしまうのは不誠実ではないか。(萩原さんはまずこれ)

 2.番組後も、ローズを渡された候補者はまだ萌子さんに見せていないような隠された素晴らしい一面を見せられるかもしれない。そのパフォーマンスの可能性を追求することなく切り上げるのは不誠実だ。(たぶんマラカイはこれ)

 3.番組の末尾でローズを渡して、番組外で交際を続けるのは番組内の制度を外部の現実世界に延長させるような不誠実な仕組みになっている。そもそも既存のバチェラーシリーズでも本当は問題だったのではないか。(萌子さんはこれもちょっと思ってると思う)

 4.バチェロレッテは、最後の一人を決めることを目指して、サバイバルが進む制度になっているのであって、最後の一人が決まらないのではそもそもこの恋愛サバイバルゲームの正当性の根拠が失われて全部無意味になってしまうのではないか。最後の一人を決められないのであればバチェロレッテという役割を引き受けてはいけないのだから、不誠実ではないか。(藤井君とかこんな感じだと思う)

 5.リアリティー・ショーの「ショー」としては、それを成立させるゲームのルールがなければならないのだが、視聴者はただのショーとしてではなく「リアリティー」・ショーとしてのバチェロレッテをわざわざ選択している。客観的で明白なルールを重んじるならただのショーを観ればよいのであって、むしろ、そういう建前はあるもののそれさえ取り払って「ガチ」になる生き様を見せるほうがむしろ誠実なのではないか。(矢部っちはたぶんこう自分に言い聞かせている)

 6.リアリティー・ショーはそもそもかなり問題がある番組コンテンツである。個人のプライベートな実存を商品化しているからだ。バチェラーシリーズにおいて出演者にその苦痛を全部浴びせるわけにはいかないので、「あくまでこれは作りものですよ」というタグを外してはいけないのではないか。だから、本人が本当は納得していないのだとしても、「形式的」にゲームとして貫徹することでさまざまなしんどさを番組内に閉じ込める必要がある。それがバチェロレッテと他の候補者を守るための、番組としての「誠実さ」ではないか。(萌子さんはわかったうえでかなぐり捨てています。だからかなり心配)

 7.そもそも結婚を前提にせず交際をすることは不誠実である。婚前交渉も、罪悪感をさえ抱いてしまう後ろめたいものだ。番組以前からそういうスタンスで臨んでいるのであって、最後のローズを渡すことは結婚の決断そのものと考えてきた。これから番組外に(コロナで失われた)「ロスタイム」を延長して候補者のパフォーマンスを見ることも考えたが、むしろゲームとしてとらえるなら、時間内に十分示せなかったという事実が答えになっているのではないか。(スタッフとは織り込み済み、ということです)

 8.ゲームのルールとしてローズを渡すべきである、というのはその通りであるのだが、男性候補者たちがバチェロレッテに好意を抱いてくれるのだとしたら、それは、「渡さない」という選択をするような萌子さんらしさをも肯定するはずであって、むしろ、法外な結論を支持しない人は十分にバチェロレッテを愛していないし、そのような人を裏切らない「私らしさ」を十全に発揮することこそ誠実ではないか(*2)。

  9.バチェロレッテはあくまで番組であり、結婚は現実の問題。番組内での役割演技(欲望の模倣をうながす構造)としてのバチェロレッテという肩書を外した、むき出しの人間として再度向かい合ったときに判断をするのでなければ不誠実ではないか。ハレでの萌子さんと男性たちは互いに舞い上がっていて冷静ではないのだから、ケにおいて、客観的に検討する時間がないと、結婚相手を選ぶという本来の目的に適わないのではないか。(萩原さんの批判の主眼はこちら)

 9の萩原さんに対する萌子さんの応答は、番組内であっても、真剣に考えてきたし、番組の内外で自分の判断は全くぶれない、というものでした(*3)。僕は、「内外で判断が全くぶれない」ことは(番組の、あるいは人間精神の)構造上原理的に不可能だと思いますが、内も外も大差ない、という点については賛同します。つまり、番組内が虚構であるのは当然その通りであるし、番組外にあっても、現実の確かさというものはどこにもないからです。それについては差し当たって、萌子さんと僕は大筋において考えが一致しているため本稿では扱わないとして、この、1~9のいずれでもなく、10個目の誠実さの水準において、今回、僕は萌子さんを支持したいと思うのです。

 萌子さんによるローズを渡さないという選択は、「他者」の側に立つ杉ちゃんへの応答ではないか、と考えます。それはどういうことかをご説明するために、萌子さんの「振れ幅」を考えたいと思います。

 番組の終盤を観ていて違和感がありました。萌子さんは、他の男性候補者たちにおおらかに、フェアに接し、彼らの内面の課題をあれほどまでにあざやかに剔抉できる分析的知性を備えているのに、なぜ自分を対象とすると一転して狭量になり目が曇ってしまうのか。それは彼女の置かれた状況には異常な磁場が発生しているために、彼女の判断を狂わせるからではないでしょうか。萌子さんの世界の中心にあるのは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーです。もう一度確認をしておくと、ロマンチック・ラブ・イデオロギーとは、「愛・性・生殖の一致を説き、結婚した男女だけが愛のある性交渉を行なうことが可能であり、それが正しいとする考え方」です。まず、萌子さんは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの強力な信奉者だと考えられます。彼女の語る結婚観は、「両親のように私も、びびっと来た完璧な人と純粋で完全な一致を獲得して一生を添い遂げる幸せな結婚生活を送りたいし、全ての人は本来そうすべきだ」というものです。実際、萌子さんは、そのような幸福な結婚生活を送る裕福な両親の下に生まれ育ち、これまで何不自由なく暮らしています。だから、そのような価値観に適った結婚を自分もしたい、父のような人を相手に母のような結婚をしたい、と考えています。

 しかし、そのような「家」の下の「幸福」には限界があります。家長としての「父」がいつも第一位の席を占めており、「父の妻」であり「父の娘の母」である萌子さんのお母さんと、「父の娘」である萌子さんは、あくまで父に従属する被-支配的な席に甘んじるしかないからです。さらにいえば、「ダイバーシティをインプルーブする強い女性」を自認する萌子さんにとっては、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの負の側面、理想的な夫-妻-子どものトライアングルをはみ出した存在に対する苛烈な抑圧を看過することはできないはずです。だから、萌子さんは、一方で、自分が生まれ育ったロマンチック・ラブ・イデオロギーの世界に抵抗を始めています。「父の娘」であることをやめて自立した強い女性となって、自己決定をしようとしているそのひとつの過程として、バチェロレッテの役割を引き受けたのだと考えられます。ストールンローズをあれほど厳しく拒絶したり、「旅の終わりは私が決めるのだ」と声を荒らげていたのは、その傍証といえます。萌子さんにとって、決定する自由な主体の最も身近なロールモデルは、もちろん彼女のお父さんです。だから萌子さんは、父のような選択をしなければならないと、考えています。その内容はつまるところ、萌子さんが家長として第一位の席に座り、パートナーを従属させて支配するような「男女を逆転させた」家族モデルを想定したものかもしれません。

 

 この両極の間を、萌子さんは繰り返しいったりきたりしていると考えるべきでしょう。だから、意思決定の内容(判断)においてはロマンチック・ラブ・イデオロギーに則って「母」のようになりたい、と考える一方、意思決定の形式(態度・行為遂行の水準)においては、ロマンチック・ラブ・イデオロギーを脱出して「父」のようになりたい、と分裂しています。しかし、この、プロ・ロマンチック・ラブ・イデオロギー(肯定)、コン・ロマンチック・ラブ・イデオロギー(反対)のいずれの極も、やはりロマンチック・ラブ・イデオロギー重力場を離れたものではありません。どこまでいっても、「家」=「結婚」=「幸福」の等式が維持されたままであるのです。萌子さんを頑なにさせているのはこの等式ですが、しかし、そこから自由になれないでいる萌子さんを責める権利を私たちは持たないはずです。なぜなら、そもそもバチェロレッテという番組自体がこの、「家」=「結婚」=「幸福」の等式を前提した、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの真っただ中にあるからです。

 バチェロレッテがバチェロレッテである限り、凍えるような自己同一性に基づいた、垂直の支配構造は貫徹されてしまう。もう少し具体的に言うなら、たとえば、黄さんと結婚することは彼女が離れたいと願ったあの「幸せな嫁入り」を目指すものであり、杉ちゃんと結婚することは杉ちゃんを庇護する「父」のような存在になって彼を従属させるものとして現れてしまうということではないでしょうか。黄さんを選んでも杉ちゃんを選んでも、「私」は、変わりたいと願ったあの「私らしい私」のまま留め置かれてしまう。だから杉ちゃんの無限の愛を知った萌子さんが、彼の問いかけに応えて、自己同一性の呪縛から自他を解放するためには、「選ばない」「しかない」のです。そのような意味で「誠実」だと思います。

 最後に、もう一点だけ、この「選ばない」という選択の「誠実さ」について考えます。それは、選ばないという選択を萌子さんは「自分らしさを打ち破る」ために成し遂げていますが、周りの人からはむしろ「自分らしさを貫き通す」ために選んだものであるように偽装している点です。

 ローズを渡さないという選択は、一見、萌子さん「らしい」ものです。そう感じるとき、私たちは、2on1でのルール違反(イエローカード)を想起しています。しかし、2on1での違反が、候補者を吟味するというバチェロレッテとしての役割を果たすためになされたものであるのに対して、ファイナルローズでの違反は、むしろバチェロレッテとしての役割を破壊するために行われたものだと考えられます。ここで、萌子さんは自分のふるまいがあえて「萌子さんらしいもの」と映るように偽装しているのではないでしょうか。それは、バチェロレッテの視聴者と男性候補者たちを眠らせたままにして「守る」ためです。彼らの価値観をゆさぶりたいのではないし、彼女自身、本気で家からの離脱を試みるために、ロマンチック・ラブ・イデオロギーからの転向を隠して「父」の目を欺く必要があるからです。

 ローズを渡さないという選択は、萌子さんらしさ=バチェロレッテの肯定=ロマンチック・ラブ・イデオロギーの貫徹と見えながら、本当は、萌子さんらしさをここで打ち捨てるための、杉ちゃんが語った「祈り」のようなものとしてつかまれています。

 すなわち、萌子さんは、やっと素直になれた、「から」、誰にもローズを渡さないのです。

 *1…萌子さんのお母さんが杉ちゃんに語った「萌子さんと一緒にお風呂の壁面にある大理石製のタイルの模様にいろんな像を見て取って遊んでいた」というエピソードは「幸せな結婚生活」に対する痛烈なアイロニーとしても受け取れる。すなわち、岩盤の下敷きになった魂はすでに死に絶えて化石化しているが、「幸せな結婚生活」という観念に現実を合わせるために、その像を読み替えて生かし続けているのだ、と。

 *2…ファイナルローズが終わったあと、黄さん・杉ちゃん・ローズの呑み込みの早さたるや!萩原さんの涙は、萌子さんへの投影が半分、そんなダメな萌子さんが好きなんだな俺たちは、だからある意味で最初から答えはわかっていたんだと気がついた絶望がもう半分ではないか。その、「地獄」を自覚するまでのタイムラグが、選考を進んだ人とそうでない人を分けており、萌子さんのここまでの選択の正しさを証してもいる?

 *3…実際、これまでのバチェラーたちもやたら「素」とか「自然な」とか「本音」とか連呼していたが、これは、「私たち出演者が存在するのはあくまでリアリティーショー(カメラが回っている虚構)の内側なんだ」という限定があり、その限定のなかでどのように話を進めるかという「ローズを渡す/渡さない」選択の根拠を説明するものであって、そもそも選択しないことの説明として「真剣(リアル)」という言葉がバチェロレッテ自身に口にされるというのは、バチェラーシリーズのコンテンツとしての成熟を示す場面だったといえる。(褒めてます)

参考文献

〇高貴なるじらじら女・福田萌子に見る家と母親の呪縛 最終章|sayaka #note https://note.com/sayasparkling/n/n26d49fe6bee2

「母」と「娘」との対立から、萌子さんの価値判断を分析する議論です。※非公開になってしまいました。とても残念です。

〇バチェロレッテ #杉ちゃんの「言葉」全編書き起こしてみた|いっぽ🐾週末ブランドプロデューサー  https://note.com/_first_penguin/n/n8c6df614a5fe

→杉ちゃんのセリフはこちらからお借りしました。

大宮夜景

 カウンターの若い女性スタッフからカードキーを受け取ると、汚れた衣服とスナック菓子でファスナーが閉まらなくなった黒いユニクロのトートバッグを肩にかけ直した。荷物の重みでバッグの持ち手が肩に食い込むのを感じる。どうやら今日までの勤務のために、身体は自分で思っているよりもずっとひどく疲れているらしい。晩夏の朝日に圧しつぶされながら、背を丸くして職場までの坂を登るみじめな自分の姿が脳裏に浮かび、僕は頬をかいた。

 階段上のセンサーにキーをかざすと、男性専用フロアへ続く、黒く塗りつぶされた自動ドアがぬるりと音もなく滑らかに開いた。

 フロアの内部は、壁も、区切られた休憩スペースも、木目調のデザインで統一されていた。一面に貼られた簡便な合板は、大学のセミナーハウスのような子供だましの軽薄な色合いをしていた。このデザインはすぐに僕に、雑居ビルに入る無機質で周縁的な仮眠のための安宿であることを思い出させないように、との、宿泊客に対する慎重な配慮のための選択だろうと悟らせたので、僕はこのピカピカしたフランチャイズビジネスのオーナーと、その内装デザイナーと、受付の女の子と、自分自身と、すれ違った無精ひげのおじさんに、あらためてゆっくりと同情した。

 レシートに、白抜きに印字された118番のベッドは、緑色に塗られたエリアに並ぶ半個室が集まるブロックの、真ん中・上段にあった。今日が木曜日で、まだ、よかった。レスワースだ。運はまだどん底にまでは落ちていない。もしもこれが満室だったら、とまで考えたところで、脂ぎった中年男性が奏でる歯ぎしりといびきの幻聴を聴いた。

 荷物を置いて身軽になった僕は、靴底のすり減った革靴を引きずりながら深夜営業の雑貨店に向かい、そこでソフトコンタクトレンズの洗浄剤と、替えのインナーシャツとカッターシャツとボクサーパンツを購入した。レジの店員からカッターシャツの返品はできないのでサイズを確認する旨、言われたが、それは僕に返品を訴える体力が残っていないことを確認させただけだった。これは不可避の、そして些細な、しかしそのために反って強くまとわりつく、精神的攻撃だ。店員たちが制度の一部として帯びる、一種のサイキックパワーだ。そのセリフと、万引き防止アラームを鳴らすバーコードを封じるステッカーの貼付を繰り返すことで、彼らは巨大な魔法陣を起動している。

 2階分続くエスカレーターを下って、牛丼と炒飯のいずれにするかを考えた。窓から牛丼屋のカウンターが満席に近いのを確認して、炒飯に決めた。

 12時が近いためか、客はまばらだった。だから牛丼屋にする人が多いのかもな、といまさらに納得した。僕はキムチ炒飯と餃子のセットと生ビール・中ジョッキを頼んだ。慣れない枕に寝付けなくなることが怖かったからだ。必要以上に胡椒が効いた炒飯に舌を痺れさせながら、ぼんやりと考えた。

 ある種の業務について、自分のこだわりに固執してはいけない、かといって、人の意見から出発するのでは、ゴールに到達しえない。それはどこか、ボルタリングに似ている。たしかに、目印はあるし、多くの人はそれにある程度は従う、結局はだれもが大部分をなぞっていくものではあるのだが、その細かな選択であるとか、手順は、自分なりの経路設計がなければ、中途で頓挫するものなのだ。あくまで、その人の身体によってそのつどためされる、人にではなく、みずからの寡黙な身体にたずね、身体のうちに一つの普遍的な答えをつかむのでなければ、決して前進しえないものなのだ。

 ビールジョッキに残る白い泡の痕を、ガラス越しに指でなぞりながら、僕は自分に言い聞かせていた。