『村上春樹のタイムカプセル』を読んで

村上春樹のタイムカプセル」而立書房 (2022/5/12)、加藤典洋小浜逸郎竹田青嗣橋爪大三郎ほか。

 

https://www.officehashizume.net/2022/03/08/新刊-村上春樹のタイムカプセル-5月/

 

○まず、これやりたいです。僧房のようなところに批評家や関心のある人を集めて、夜通しで議論をやる。どうだろう?

○橋爪さんが村上春樹を読んでいることがけっこう面白い。橋爪さんは文学を読むということ自体かなり不慣れなので、主人公と語り手と「作者」を一緒くたにして斬っていて、それを加藤がとがめるところなど会の意義を感じる。

○物語やモラルみたいなものが困難になった時代にどうやって閉鎖系の中から出発して善を志向しうるのかを考えていく件があり、最終的に竹田さんが「欲望が善を志向する条件は何か」と問うよりないということを答えるところがよかった。

○村上の文体は彼の男性性らしさという雰囲気を無化・後景化・脱臭しているから、例えば、ある参加女性は(女性という立場を代表するわけではないけれど)自分は女性として読みやすいと言う。

○そこから?初期条件の無化という話題に入る。生得的規定性を解除していく方向、所与を選択に置き換えていくことに希望を見る橋爪さんに対して、竹田さんはそれでは思想はだめだ、そういう思想はうまくいかないと考える。僕も所与性を引き受けるところから進まないと納得を得ないと思う。これはテクストの読みと相似形を描いていて、わたしにはこうとしか受け取れないものとしてテクストの「意味」は現象する。この辺りの入り組んだ事情については、会の後にまさに加藤典洋が取り組んだ仕事である。

○初期条件の無化という話題は、会の参加者たちにある種の震撼を与えたが、それは僕には例えば森岡さんがやっている「反出生主義」に近いものとして映る。ロールズの「透明なヴェール」みたいなツールって思考実験として面白いが、結局個人の生にとっての道筋を示すことができない以上納得をもたらさないのではないか。「え、でもそれはどうやって」「あなたはそれで何をするの」という問いを誘発し続けるのではないか。

○同様に、「イノセンス」「人間」というタームも手続き論的無理を示している。

○やや傍論だが「世界の終わり」について論じる中で、「湾岸戦争」はいわば「森」であって、ナルシシズムを考えるうえで焦点をぼやかす余計な表象だという議論に及ぶ。ない方がいいのだと。これについて、自閉的個人が自らのものとして外的規定を引き受ける契機は何か、と問えるだろう。ジジェクによるカフカ論など参考になる。このとき、不都合で疎外そのものの象徴であるような外的規定こそ主体の本質を示すものに他ならない。醜悪な歪像こそ私自身であるというメタファーは、ナルキッソスの神話がまさに美と鏡像をめぐる物語であったことと深いところで結びついているのだと思う。また、目を、表現をめぐる現実に向ければ、うまく書けなかった妥協の産物としての「作品」を世に出すことしか書く営みは不可能であることを示唆している。近年の千葉雅也による書くことについての仕事を参照されたい。(千葉の仕事は、ひとつの小説論として読める。)

○エッセンシャルな、家事的な、ジェネラルな、細々とした、ケアワークは、それを担う人に対して周囲から「それはあなたがやりたくてやっていることでしょう」という声がかけられるが、この切断をもたらす圧力は時代的必然性をもつのかもしれない。ネカフェの個室、タコツボあるいは島宇宙への自閉は、善への志向そのものである言語化の困難と表裏の関係にあるからだ。外との関係が希薄化すればするほど、内部に諸力を従属させて輪の外へ影響を漏らさないことが求められる。    

 病、子ども、crypto、政治、それら野蛮をどのように扱うのか?子どもが喧騒なのは、当然ではないか?生命のエネルギーを私たちは恐れすぎているのではないか。予測できない事態が到来することは喜ばしいことなのではないか。他責的語法の一本槍でクレームを入れる以外に外的存在との関わりを持てない幼稚な者を市民として遇することはできないだろう。地縁・血縁的な中景が拡散して久しい現代「社会」において、それらに代わるコミュニティが期待されている…いや、もう諦めにさえも慣れきった私たちはしかし、一体新しい連帯のためにどういうイメージを持ちうるだろう。語りうる「私たちの未来」を想像するための条件は何か?

○「学力」を従来的受験学力と、未来志向的探究学力に峻別しようとする方向は、実は悪手だと考えている。両者の違いは認識の上での重点の置き方に過ぎないのではないかと思っているからだ。すなわち、評価(外的に観察)されたものが受験学力で、経験されたものが探究学力なのではないか?探究的な深まりのない学びなど、構造的に不可能なのではないか。学習者が意識的存在である以上、彼らはつねにすでに教わったこと以外の全てを学んでいるのだ。

○実際にやるのだとしたら、誰を呼ぶ?何の本で?村上春樹に代わる文学的中心がない…。千葉雅也、國分功一郎森岡正博大澤真幸