青い薬でも赤い薬でもなく…。「マトリックス レザレクションズ」におけるバッグズのやり方について。

マトリックス レザレクションズ」を観た。マトリックスシリーズについて、僕は1と2を観たはずだがあらすじがほとんど抜けてノリしか覚えておらず、3は未視聴である。したがってずいぶんふわふわした理解でものを見ているのであしからず。

 

1

 荘子に「胡蝶の夢」というよく知られた説話がある。あるとき荘子は夢の中で蝶に変身し、思うままにひらひらと空を舞っていた。目が覚めると自分は荘子であって蝶ではなかったことを思い出した。夢の中では自分が荘子であることなど忘れていたからだ。…しかし「こちら」が外で「あちら」が内だと、どうして言えるのだろう。荘子が胡蝶となる夢を見ていたのではなく、今まさに「本当は胡蝶である私」が荘子に変身した夢を見ているのでないのだと、誰に言えるのだろう?

 ここで荘子の要点は二つある。ひとつは、構造的に言って夢の内側から外側はわからないということだ。私たちはいつも状況の内側に閉じ込められていて、視界を遮るもののない俯瞰的な視座に立つことはできない。私たちは「これ」が夢ではないことを原理的に証立てることができない。

 そしてもうひとつは(万物斉同を唱えた荘子からすれば本来こちらが主眼なのだろうが)、ここで胡蝶も荘子も「私」ではないということである。夢の変転は無限に続き、「私」はそのつどの具体的な現れを抜け出して外側の世界へと醒めることができる。だからそのどれも「私」そのものとは一致しないのである。理想的同一化の点としての「私」とは、無数の夢におけるどの像とも符合しない不可能な影、光を飲み込んでしまう「鏡の裏箔」のようなものだ。

 

2

 映画「マトリックス」の基本構造はこうである。主人公の青年ネオが青い薬と赤い薬のいずれを飲むか迫られる。青を選べばこれまでどおり「普通の現実」に生き続けるだけだ。赤は、ネオを本当の現実の状態へと覚醒させることになる。実はネオが生きる世界はAIによってコントロールされたバーチャルリアリティであり、人々は集団的な夢を見せられているのだ。荒廃した外部現実において眠りこくった人間の身体はAIにエネルギーを供給する電池として使われている…。

 ラナ・ウォシャウスキー監督による「レザレクションズ」は、マトリックスシリーズ第4作に当たる。今作は、前作「レボリューションズ」と筋が繋がらないままにストーリーが始まる。主人公ネオとヒロインのトリニティは人類救済と引き換えにして自らの命を犠牲にしたはずだったのだが、ネオはゲームクリエイターとして、トリニティは平凡な主婦として、互いに無関係な他人として暮らしている。この世界でネオは、ゲーム「マトリックス」を作った世界的なクリエイターとして成功しており彼は生活に概ね満足している。ただ時折彼の脳裏には、ゲーム世界におけるリアルな記憶が浮かぶことがあり、「自分は現実とゲームの区別がつかない精神疾患なんだ」と自覚してカウンセリングに通っている。

 もちろん今回もまたネオは偽の現実に生きていたのであって、仲間に助けられて赤い薬を飲み本当の現実へと覚醒したネオは再び自分とトリニティーがAIに囚われていたことに気がつく。助かったネオは選択を迫られる。リスクを冒してマトリックスの世界に残された(つまり機械に脳を繋がれたままの)トリニティーを救うのか、隠れ住んでいる人類の安全を優先して彼女を諦めるのか。

 残された人類の、外部から隔離された安全な共同生活を守るためにトリニティーを犠牲にするべきだというナイオビ将軍の「リアリズム」には既視感を覚える。身体的接触を避けてウィルスからの自己隔離をできる人間と他者と直面させられるエッセンシャルワーカーたちとのコロナ禍における意識化されない切断に類似しているのだ。私たちの自粛がエッセンシャルワーカーの曝露に依存するように、マトリックスの外的現実における慎ましやかな生活自体がすでにして救済者ネオという希望の幻想に依存しており、それなくしては人々の行動は倫理的に基礎付けられずそもそもコロニー「アイオ」の維持が不可能なのだとしたら?

 「私」の立場が「胡蝶」でも「荘子」でもないように、弱者を救うための本当の連帯の可能性はマトリックスの夢の中にもアイオの「必要な犠牲」の上に営まれるリアリズムにもない。唯一の希望は、バッグズが導く「不可能なはずの第三の道」である。