「ここがマトリックスだ、ここで跳べ…?」

マトリックス レザレクションズ」を観た。前回の感想の続きです。

青い薬でも赤い薬でもなく…。「マトリックス レザレクションズ」におけるバッグズのやり方について。 - takayuki0929’s diary https://takayuki0929.hatenablog.com/entry/2022/01/22/071655

 

 「ここがロドスだ、ここで跳べ!」とはイソップ寓話にある話の中で、ロドス島のスポーツ大会で跳躍の新記録を出したと自慢する男に、それを聞いた人たちが「ではここがロドスだと思ってここで跳んで見せろ」と迫った台詞である。一方マトリックスの世界に閉じ込められた「レザレクションズ」のネオはこれと対照的に、当人がいわば「これは夢だ、この屋上から跳べ!」という強迫的な衝動に苦しんでいるのを周囲の人が制止している。もし本当に「これ」が夢ならば、私は高層ビルの屋上から跳んだって死なないだろう。ネオにとってビルから跳ぶか跳ばないかということが「これ」を夢と現実のいずれとして見做すかと重なっている。跳べないのならネオはカフェで出会った憧れのトリニティーを諦めて「普通の現実」を受け入れるしかない。

 さらにこの踏み絵のような二者択一は信仰が人間の認識ではなく行為遂行の水準にあることを示唆している。どんなに退屈で気に入らなくてもこれが現実なのであって、妄想上の人物と会話して逃避を図るのは精神的に不安定になっている証だともちろんネオにはわかっている。だからネオはカウンセラーにも「これが現実ではないんじゃないかという妄想に悩まされているんです」と話し、処方してもらった青い薬を飲んで気持ちを鎮めている。だがネオはなおかつ「これが現実だと頭では分かってはいるのだが、しかしそれでもこれが現実だとはどうしても思えない」ので、屋上から跳ぼうとしてしまうのである。

 クリストファー・ノーランの「インセプション」においても、夢から現実へと覚醒するための契機として夢の中での死というルールが適用されており「夢から醒めるために死ななければならない」という全く同じ強迫的衝動が登場したが、現実の世界において飛び降りてしまっては本当の死を迎えることになるのだからそれを周囲の人間が制止するのは当然のことだ。

 

 結局、この押し問答は決着しない。当人にとっては跳ぶことがつねに正しく、周囲の人間にとっては跳ばないことがつねに正しいというすれ違いが生じているからだ。どういうことか?

 まずネオ本人にとって、これが夢である時、跳ぶことによって外的現実へと覚醒するのだから跳ぶのが正しい。そしてこれが現実そのものであったとしても、そこで夢が醒める=この暫定的現実が終わるという点である意味で問題は解消する。やはり、夢だったのだ、これは…。

 次に、周囲の人間にとって、これが本当の現実であるならばネオの跳躍を制止せねばならない。人の自死をみすみす見逃すわけにはいかないだろう。そしてこれがネオの見ている夢であるのであっても、やはりネオ以外の人間にとっては(つまり夢の住人にとっては)これは現実と変わらないのであって、世界を終わらせないために夢の終わりを延期しなければならないのだから、跳ばせないことは正しいのだ。

 どの、夢かもしれない世界においても、「私」にとっては跳ぶことが正しい=暫定的な夢にすぎないと疑うことができる上に、その疑いは問題の構成を解体する正当なものであり、「私以外の全ての人」すなわち言語的現実にとっては、跳ばせないことが正しい=この望ましくない世界こそ対他的存在としての<私>のための外的現実そのものである。

 したがって、「私」にとっての、どの偽物の世界でもよいのだが、いずれかの任意の世界を本当の現実として扱うことにして、その世界における「私以外の全ての人」と共にあり彼らに対する責任を引き受けることこそが現実を生きることに他ならない。

 ウィリアム・イェーツの詩集『責任』のエピグラフに「In dreams begins responsibility」の一文がある。夢の中から責任は始まる。どの夢でもよい、これをあたかも現実であるかのように取り扱うこと。それだけが私たちをここに繋ぎ止める契機となる。