20220902

うーん。首が回らない。

お手玉をしながら、一輪車で綱渡りをする絵を想像する。

昔は、そういうときも、日記をつけていた。

Googleサイトでやろうと思っていたのだが、iPhoneから更新できず不便すぎて断念。

 

今書こうとしていること。

①心の棚卸し・解説

②心の棚卸し・実践

③主体性について、勉強の哲学論

1984を読んで

金子みすゞの功利的思考、または貨幣の空疎さ

 

何をなすべきか?

諦めることによって有限化ができる。

お手玉を高く投げ、ひとつずつ潰すこと。

落語は「誰かになってみる」こと--落語ワークショップで参加者の情緒と表現を引き出す

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1.昨日(2022/08/28)、「らくご大隈塾」に参加しました。

 講師は「落語教育家」の楽亭じゅげむ師匠(小幡七海さん)!

 じゅげむ師匠は学生のとき「全日本学生落語選手権」で優勝し、桂文枝師匠に将来を嘱望されつつも、ずっと夢だった小学校教員になりました。しかし、落語の魅力を教育プログラムにして全国に広めようと思い立ち、教員を辞めて「落語教育家」として活動を開始し、今では全国の学校や企業から引っ張りだこの大活躍をされています。

 「らくご大隈塾」では、じゅげむ師匠の古典落語をたっぷり二題聴かせていただき、アプリ「slido」とグループワークを用いたワークショップで鑑賞して考えたことを共有しました。

 演目は「動物園」と「ちりとてちん」。「動物園」は勤務校での芸術鑑賞の際に二度聴いたことがありましたが、上方の言葉でじゅげむ師匠がやられているのを聴いて、柔らかくてまた違った印象を受けました。「ちりとてちん」は、ダメな人物たちによる日常的な小さいドラマで、「共感と表現」へと参加者を巻き込んでいく落語ワークショップの材料として最適だと思いました。

 

2.落語の「不易流行」

「僕も演劇表現を授業に取り入れたい」と思って臨んだ僕にとって、ワークショップのなかで面白かったのは、じゅげむ師匠の落語観でした。なぜ、落語なのか?

 じゅげむ師匠は、落語は400年残っているけれども、それほど長く残っている核心には「共感」があるとおっしゃいます。落語には(ご存じの方には「与太郎」に典型的な)「ダメな人」がたくさん出てきます。そんなに肩肘張った立派なもんじゃない。その気軽さ、身近さが時代を越えて人を惹きつける。

 人が崩れていくドラマのなかで、いろんなユーモアや知恵やコミュニケーションの方略なんかが現れてきて楽しみながらも観客は、自分ではない多様な「他者の靴を履く」ことができる。

 それは、噺が落ちて日常に帰ってきても「影」として僕たちの中に残って、いざという時に「こういう手もあるぜ」とささやいてくれたりする。建前として虎を演じなきゃいけないときに、「パンくれ」と耳打ちして本音をちょっと漏らす…という手もあるぜ、なんてね。

 それから「流行」は、やっぱり、じゅげむ師匠の語りの技について解説してくれたところが、表現を指導しなくちゃいけない僕にとっては面白かったです(実は国語科の教員だったりするのです)。

 落語は「人を引く」微妙な技巧が無数に散りばめられて成立している演劇芸術です。じゅげむ師匠から教わったテクを一つだけ勝手にお裾分けすると、「人を引く」には「演技を入れる」とよいのだそうです。人は、目の前で演じられるとつい、聞き込んでしまう。なぜでしょう。僕の仮説は、それが二人称で呼びかけられるようだから、です。人は他人の〈顔〉が自分に迫ると、どうも「応答」してしまうらしい。

 グループワークでも、話芸の工夫について話し合ったところが一番、僕は面白かったです。

「動物園」のオチが意外で面白いよね。でも、これって観客が上の空になってオチがどんなもんかを勝手に先読みして想像してしまったらバレちゃうかもしれない。ということは、気を逸らさせないように引きつけておく工夫がいろいろあるんだろう。それは、例えば手品の視線誘導みたいなものかな。あ、なるほど。なら、 例えば、虎の歩き方のあの細かくて妙にリアルなやつも、そういう罠っていうか、ここにいさせておく技なんだろうね、なんて仮説を議論していました。

 

3.探究的な学習の基盤となる「面白がる力」へ

 僕はふだん、授業や生活の指導において、「探究的な学習」の心構えを大事にしています。探究とは、僕の定義で言いますと、対象とその説明の「一対一」対応に満足せずにそれをそのようなものとして扱われさせている/そういうものとして現象させている「力や視点や制度」といった外的規定性を意識する、ということです。

 …力みました。もうちょっとかみくだくと、要するに頭使って鵜呑みにするな、ということ、なんで?とか本当?とか、疑ったりいじくってみたりしろ、ということです。

 今回のワークショップに参加し、落語をはじめとした演劇表現は探究的な学びの姿勢・知的基礎体力を養うためにとても有効だと感じました。落語が聴き手に促す共感と表現こそ自ら考え、知を探究する主体性の根っこになるからです。

 ひな鳥が親鳥からエサを口移しされるように知識を注入されるのではぜんぜん探究になりません。単に、自分で跳ぶしかない。同様に、「学習する」主語は生徒たちであって、面白い授業をやってくれる素晴らしい先生を待っている生徒は結局、大人になることができません。探究の核心には物事を「面白がる力」があります。何もない退屈な日常の中にユーモアやドラマを積極的に見てとる(ずらしながらノリノリに乗る)落語が生徒たちの中に眠る想像力を揺り起こしてくれるにちがいありません。

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撮影/佐藤洋輔さん https://chiikitoeizou.com/

 

なぜシャンクスはみすみす娘を見殺しにしたのかーー「ONEPIECE FILM RED」における二つの違和感その2

この記事は前回の続きです。映画のネタバレを含むので閲覧に注意してください。

takayuki0929.hatenablog.com

 

2

 歌声が人々を危機から救済しカタルシスがもたらされるというその全体主義的な筋の進行から一転、推進力を失って墜落したような、呆気のない結末に興をそがれる思いのした観客がかなりいるらしい。確かに『ONE PIECE』物語世界においてシャンクスが持つその巨大なプレゼンスから考えると、ウタが人々の安全を優先して薬を飲むことを拒絶する…すなわち自らの死を受け入れるという展開はいくらか不自然なようだ。

 しかしそれを、ある視点から見れば自然な像を結ぶことができる。それはどこからだろう。ウタと魔王トットムジカとが一体の存在であることはすでに前項で確認したが、では、彼女たちは物語世界にとって何者であるのか。このように問うことから問いの核心に迫ろう。

 作中でトットムジカは「古代から続く人の思いの集合体で、寂しさや辛さなど心に落ちた影」であるとロビンによって説明される。魔王は人々の抑圧された願望が上映されるはずの夢の中で出会うことになる「拒絶すべき悪しきもの」であり、人々はそれに出会うとむしろ夢から現実へと覚醒したくなるものであるのに、それは人の思いそれ自体である。さらには魔王が、現実世界と夢の世界とを結びつけてしまう結節点となる。こうした諸特徴は、精神分析家のジャック・ラカン精神分析理論に依拠しつつ、哲学者スラヴォイ・ジジェクが詳細に論じている「現実界」という概念のそれと完全に符合している(映画自体が「現実界」についての詳細な解説のようだ)。ジジェクによれば現実界とは現実を支えている前提条件であるとともに、それを阻害する要因でもある。それは大きく三つの側面を持つ。

 一つはラメラと呼ばれる、不気味に波打つ肉塊である。それは一定の形式を持たず、絶えず姿を変えて執拗につきまとう。そして不気味な過剰さを持ち、強迫的に動き続ける。もうひとつは、機械的な規定、「ルールはルールだから」と人間的な意味の豊かさを剥奪された「無意味な公式」である。自動機械は人々のどんな事情も無視して同じオペレーションを貫徹する。

 そして三つめは対象aである。ちょっとした細部が気になって、ある普通のものが崇高なものに変わる。恋や相互不信、高度資本主義経済下における消費行動と、私たちの身辺にも氾濫している現象だ。人間に紛れ込んだ見分けのつかないエイリアン、マニアによって高値で取引されるコレクターズアイテム、プレゼンのたびに私を苛立たせる同僚が発するある語がもつ微妙なアクセントのクセ…。私たちはそれをいつも欲望の対象(その欠陥にもかかわらずそれを愛する)と取り違えるが、実際には欲望を起動する原因(その欠陥こそが他のものからそれを分け隔てる)である。それは当人にもコントロールできない異質で過剰な侵入者であり、有機的統一性の完成を阻む不気味な染みである。「それ」があるから統一的な空間が歪むのではなくて、最初から私たちの現実的世界・意味秩序空間には亀裂が走っており、亀裂を糊塗せんがために私たちはつねにすでに空間を歪め、結果として「それ」を生んでいるのである。

 しつこく付きまとう死の予感は、ゴードンがトットムジカを呼び出す禁じられた楽譜をその破滅的な力にもかかわらず捨て去ることが出来なかったという奇妙さと対応するだろうし、まさにその力が「ウタ=死へと至る律動」である映画全体の終末論的構成自体が機械的規定性を想起させる。そして第3の「私はなんだか知らない」という現実界の特徴は、象徴的世界の行き詰まりを解消するためにFILM REDという映画が要請されたこと…欲望を喚起するために事後の時点から回顧的に外傷的な原因が措定された捏造物であることを暴露する。

 ウタとは物語にとって何者なのか、という問いに今このように答えよう。彼女は魔王トットムジカそのものであり、そもそも物語世界内に存在しない人間だ。彼女は自分が存在しないことを忘れている。彼女が自分の不在を思い出してしまうまでのわずかな時間だけ(厳密には115分)彼女は存在するのだ。(ジジェクはこの説明をするためにいつもどこかで私たちが見たことのあるアニメーションの場面を持ち出してくる。ネコが崖を飛び出して空中を走っている。下を見下ろし、足の下に何も支えがないことを発見したときにはじめて、ネコは落ちる。この宙吊りの緊張こそが物語を駆動する原的動因なのだ。)もちろん、ウタは映画のためにでっち上げられたキャラクターだったではないか。ルフィとは実は幼なじみだった?シャンクスの娘だ?そもそも一巻でルフィが仲間に音楽家を引き入れようとしていたのはウタが念頭にあったからである?連載を何十年も続けていま、最初からそうだったことになったのだ。わざわざ言われずともそんなことは全員がわかっている。

 しかし、人物たちの視線があまりにも都合よく配置され、物語がその弁証法的過程を流れるように進んでいくのはなぜだろう。ルフィは、ウタと一緒に過ごした幼い日々を思い起こし、自分たちの関係性を再認識する。またラストシーンにおいて夢の中で「麦わら帽子の似合う男になれよ」と励まされる会話をする。ウタは、エレジアの悲劇の真実を知っていた。残された電伝虫を再生し、偶然、魔王トットムジカに取り込まれた自分自身がエレジアを滅ぼす様を目撃し、シャンクスたち赤髪海賊団がエレジアを滅ぼしたことにしたのは自分の罪を肩代わりした嘘だったという真実を知る。シャンクスはヤソップたちの見聞色の覇気によって夢世界内の映像を垣間見て、トットムジカに対する夢内外からの同時攻撃に成功する。五老星は電伝虫を通じて夢の世界のイメージを観察し、海軍に指示を送り事態のコントロールを測る。なぜ偶然にしてそれらを私たちは目にするのか。もちろんそれが偶然ではなく、初めからまさに私たちのために上映されている映像だからだ。映画自体が罠なのだ。

 漫画『ONE PIECE』において主人公ルフィは何者も置き去りにしない正義を志向し、一切の不自由からの解放のために冒険を進める。しかし、シャンクスが正しく指摘する通り、この世に自由も平等もないのであって、最終的な解決は原理的に不可能なのだ。象徴的現実には亀裂が走っている。海賊は海賊であって、海賊でないものではない。多くのものは全てではない…。その不可能な糾弾を指示する表象としてウタは舞台に上がる。

 ウタは男たちを破滅へと導き、結局彼らは皆してウタを手に入れることができない。ウタのころころ変わる表情、互いに矛盾した瞬間瞬間のヒステリー的仮面は、彼女が自分自身の快楽の犠牲者であり、無意味な命令に従う運命の操り人形であることを示している。

 確認しよう。

①ウタを得る代わりに、彼女の実父は死んでしまう。実父はウタをシャンクスに受け渡す。

②ウタを得る代わりに、シャンクスは名誉を失う。シャンクスはウタをゴードンに受け渡す。 

③ウタを得る代わりに、ゴードンは国を失う。ゴードンはウタをルフィに受け渡す。

④ウタを得る代わりに、ルフィは世界を失う。ルフィはウタをシャンクスに受け渡す。 

⑤そしてシャンクスはウタを諦める。ウタを失う代わりに現実へと帰還する。

 この勝者のいない悪夢のようなゲームに巻き込まれた人間は、ウタを売り渡して罪悪感と共に切り抜けるか、それともウタに固執して一緒に破滅するかの二択を迫られる。だから映画のポスターでウタと共に書かれた台詞は「ねぇルフィ、海賊やめなよ」なのだ。

 これは『ONE PIECE』全ての否定に他ならない。こんな悲劇にもかかわらず彼女は魅力的なのではない。この不可能な物語の起源が最初から捏造されているので、私たちはウタにどうしようもなく惹かれてしまうのである。

歌姫ウタはどうして魔王を呼び出してしまうのか――「ONEPIECE FILM RED」における二つの違和感その1

 一方に「偶然見てしまった」と自認されている盗み見がその実「必然的に見せられているものだった」という転倒が、そして他方に能動的にわざわざ覗いているのであって「私が見つめているそれは演技だとわかっている」という自覚のもとに観察されているものが「嘘と見せかけた真実そのものである」という転倒がある。彼らは一様に騙されるのだが、それはなぜだろうか。二重のスキャンダラスな真実、現実が現実ではないということ、そして、夢が夢ではないということを隠蔽するためだ。すなわち現実は我々がそう信じたいような客観的で合理的な有機的統一性を持たないし、夢はつらい現実から逃れられるような、私たちの願望を完璧に反映したセーフティハウスとなることができない。

*

ONEPIECE FILM RED」を鑑賞する多くの客が抱くだろう二つの違和感から考えよう。一つは、なぜシャンクスはみすみす娘を死なせてしまったのか、そして、もう一つは、どうしてウタは「エレジアの悲劇」の真実を知りえたのか、という問いだ。いつものように答えを先に言えば、ウタは最初から救いえない「幻の女」として働いているからであり、やはり同じことだが、「エレジアの悲劇」の真実は語られていないからである。真実をつかむためには、物語の深奥にではなく、ずっと目に入っているのにそれと意識化できない表層をよく観察する必要がある。

 ウタの「計画」とは次のようなものだった。ウタウタの実の能力によって人々を夢の世界へと取り込み、ライブを上演する。同時に現実のウタは「ネズキノコ」を食して能力が解除される条件である彼女自身が眠ってしまうことを防ぐ、さらには体力を使い切って死ぬことで能力の解除を永遠に先送りにする。人々は平和で平等な夢の世界に精神的存在として閉じ込められる。海賊が跋扈する現実は厳しい闘争をサバイブできないただの人々にとっては理想をかなえられない欺瞞の世界なのであって、終わりがない醒めない夢の世界が「新時代」だ、とウタは主張する。しかし、やはり計画は頓挫し、その凶悪な裏面を見せる。ウタの夢世界は人々の細かな願望を個別最適に叶えられるほどの精密さをもたないので彼らを物言わぬキャラクターに変換するほかないし、現実と夢の中から海軍や海賊たちが邪魔立てをするので追い込まれ、ウタは魔王トットムジカを呼び出してしまったからだ。

 この物語の表層上の筋は、以上の通りなのだが、しかし、上述の二ヶ所、シャンクスの無能さと、ウタが「エレジアの悲劇」の真実を記録した電伝虫を発見し、見ることが出来た違和感を分析しよう。

 

1…歌姫ウタはどうして魔王を呼び出してしまうのか、またはウタの正体

 まず後者、「エレジアの悲劇」とは、シャンクスが音楽の国エレジアに幼いウタを連れて来た晩にウタと国王ゴードンを残して全国民が死に絶えて、一夜にして国が滅びた謎の事件を指し、作中世界においては赤髪海賊団がその犯人であるとされている。しかし実はウタの持つウタウタの実の力が、エレジアに封印されていた魔王トットムジカと共鳴し、ウタが無意識的に魔王を復活させて国を滅ぼしてしまったのだったと説明された。シャンクスは幼いウタに罪悪感を抱かせないため義娘の罪を被り、ゴードンと口裏を合わせて自分が犯人だったという説明をさせたのだった。さらに映画の終盤、ウタは、実は後年、亡国が自分とトットムジカの力の暴走によるものでシャンクスが犯人ではない、つまり彼が罪を肩代わりしてくれていたことまで知っていたことが判明する。それは事件の実際を記録した電伝虫があったからだ、と説明されるが、しかし、これでは辻褄が合わない。国民が全滅するほどの甚大な被害の中で、しかも、ウタの能力は聴く人をみな眠らせるものなのだ、どうやって、記録が可能なのだろう。もしも、記録が可能なのだとしたらそれはゴードンか赤髪海賊団の乗組員の手によるものだ。

 このとき、彼女を深く傷つけるにちがいない記録をウタにわざわざ見せる必然性は、もっと重い罪・つらい真実から彼女を守るためだろう。過失による亡国よりも重い罪は、もはや、それが例外的なものではなく意図的で必然的なものであることの他ない。つまり、ウタは魔王トットムジカそのものであることだ。

 トットムジカとは、ラテン語でのすべての(トット)、音楽(ムジカ)という語に由来するのだという。ウタというヒロインの名との相同性が意図されたデザインだろう。さらには、ウタウタの実の能力によって起動してしまった魔王という限定も、彼女が人前で歌を披露するときには必ず(生涯で二度しかなく、つまり二度とも)破滅をもたらしたのであって、彼女が歌うということは魔王による破壊が伴うことを意味している。これは悲劇的な偶然なのではなく、彼女自身が魔王そのものであることを端的に示している。

『村上春樹のタイムカプセル』を読んで

村上春樹のタイムカプセル」而立書房 (2022/5/12)、加藤典洋小浜逸郎竹田青嗣橋爪大三郎ほか。

 

https://www.officehashizume.net/2022/03/08/新刊-村上春樹のタイムカプセル-5月/

 

○まず、これやりたいです。僧房のようなところに批評家や関心のある人を集めて、夜通しで議論をやる。どうだろう?

○橋爪さんが村上春樹を読んでいることがけっこう面白い。橋爪さんは文学を読むということ自体かなり不慣れなので、主人公と語り手と「作者」を一緒くたにして斬っていて、それを加藤がとがめるところなど会の意義を感じる。

○物語やモラルみたいなものが困難になった時代にどうやって閉鎖系の中から出発して善を志向しうるのかを考えていく件があり、最終的に竹田さんが「欲望が善を志向する条件は何か」と問うよりないということを答えるところがよかった。

○村上の文体は彼の男性性らしさという雰囲気を無化・後景化・脱臭しているから、例えば、ある参加女性は(女性という立場を代表するわけではないけれど)自分は女性として読みやすいと言う。

○そこから?初期条件の無化という話題に入る。生得的規定性を解除していく方向、所与を選択に置き換えていくことに希望を見る橋爪さんに対して、竹田さんはそれでは思想はだめだ、そういう思想はうまくいかないと考える。僕も所与性を引き受けるところから進まないと納得を得ないと思う。これはテクストの読みと相似形を描いていて、わたしにはこうとしか受け取れないものとしてテクストの「意味」は現象する。この辺りの入り組んだ事情については、会の後にまさに加藤典洋が取り組んだ仕事である。

○初期条件の無化という話題は、会の参加者たちにある種の震撼を与えたが、それは僕には例えば森岡さんがやっている「反出生主義」に近いものとして映る。ロールズの「透明なヴェール」みたいなツールって思考実験として面白いが、結局個人の生にとっての道筋を示すことができない以上納得をもたらさないのではないか。「え、でもそれはどうやって」「あなたはそれで何をするの」という問いを誘発し続けるのではないか。

○同様に、「イノセンス」「人間」というタームも手続き論的無理を示している。

○やや傍論だが「世界の終わり」について論じる中で、「湾岸戦争」はいわば「森」であって、ナルシシズムを考えるうえで焦点をぼやかす余計な表象だという議論に及ぶ。ない方がいいのだと。これについて、自閉的個人が自らのものとして外的規定を引き受ける契機は何か、と問えるだろう。ジジェクによるカフカ論など参考になる。このとき、不都合で疎外そのものの象徴であるような外的規定こそ主体の本質を示すものに他ならない。醜悪な歪像こそ私自身であるというメタファーは、ナルキッソスの神話がまさに美と鏡像をめぐる物語であったことと深いところで結びついているのだと思う。また、目を、表現をめぐる現実に向ければ、うまく書けなかった妥協の産物としての「作品」を世に出すことしか書く営みは不可能であることを示唆している。近年の千葉雅也による書くことについての仕事を参照されたい。(千葉の仕事は、ひとつの小説論として読める。)

○エッセンシャルな、家事的な、ジェネラルな、細々とした、ケアワークは、それを担う人に対して周囲から「それはあなたがやりたくてやっていることでしょう」という声がかけられるが、この切断をもたらす圧力は時代的必然性をもつのかもしれない。ネカフェの個室、タコツボあるいは島宇宙への自閉は、善への志向そのものである言語化の困難と表裏の関係にあるからだ。外との関係が希薄化すればするほど、内部に諸力を従属させて輪の外へ影響を漏らさないことが求められる。    

 病、子ども、crypto、政治、それら野蛮をどのように扱うのか?子どもが喧騒なのは、当然ではないか?生命のエネルギーを私たちは恐れすぎているのではないか。予測できない事態が到来することは喜ばしいことなのではないか。他責的語法の一本槍でクレームを入れる以外に外的存在との関わりを持てない幼稚な者を市民として遇することはできないだろう。地縁・血縁的な中景が拡散して久しい現代「社会」において、それらに代わるコミュニティが期待されている…いや、もう諦めにさえも慣れきった私たちはしかし、一体新しい連帯のためにどういうイメージを持ちうるだろう。語りうる「私たちの未来」を想像するための条件は何か?

○「学力」を従来的受験学力と、未来志向的探究学力に峻別しようとする方向は、実は悪手だと考えている。両者の違いは認識の上での重点の置き方に過ぎないのではないかと思っているからだ。すなわち、評価(外的に観察)されたものが受験学力で、経験されたものが探究学力なのではないか?探究的な深まりのない学びなど、構造的に不可能なのではないか。学習者が意識的存在である以上、彼らはつねにすでに教わったこと以外の全てを学んでいるのだ。

○実際にやるのだとしたら、誰を呼ぶ?何の本で?村上春樹に代わる文学的中心がない…。千葉雅也、國分功一郎森岡正博大澤真幸

ループからの出口を報せる破壊的な存在について:レザレクションズ③

マトリックス レザレクションズ」を観た。前回の記事の続きです。

takayuki0929.hatenablog.com

 

 映画「マトリックス レザレクションズ」においてはネオが空を飛べるのか否かという謎こそが物語を駆動する力であり、「跳ぶこと」が彼が主体性や自由意志を備えているのか、あるいは救世主としての資格を持つのかということの証明として機能している。

 前節ではそれがネオ自身にとってどのように感じられるかという内的現象を考えた。次いでここではさらに、ネオが空を飛べるのかどうかということが、映画の主人公たちと比べたら地味で平凡な生活をしている私たち普通の人、いわばモブキャラクター(端役)としての私たちにとって持つ意味を考える。

 映画の中で「シープル」という言葉が登場する。シープルとは羊(sheep)と人(people)を約めた「羊人間」くらいの、否定的ニュアンスが込められた表現であるが、マトリックスに没入する人々は自分から群羊のように支配されることを望んで夢の世界に閉じ籠っているのだという。

 シープルの揶揄はチャップリンによる「モダン・タイムス」の冒頭、羊の群れがこちらへ走ってくるショットがディゾルブして、通勤する労働者たちが地下鉄の階段を登るショットへと切り替わるシーンに通じている。群れの進路に合わせて移動すれば安全な可能性が高く、何より何も考えないでいられる…。生活そのものに由来する苦痛を私たちは愚鈍と慣れによって辛うじて耐えている。自分自身の浅ましさに対して無知でいる限りで自己の同一性をもって生き永らえているのだとも言える。

 しかし、いつか何かがきっかけとなって、代わり映えのしない日常というループに閉じ込められた自分の在り方に対する疑いが生起することがありうる。ネオたちを外的現実へと導いたバッグスは全くの偶然に、ビルの屋上から跳ばんとするネオを目撃することによって、マトリックス世界という「普通の現実」の内部にありながら例外的に覚醒する。

 その後、仲間を得たバッグスが今度はネオを助けるために彼を探し続けて発見し、赤い薬を飲むよう促す説得は『ジョジョの奇妙な冒険』第5部「黄金の風」においてギャングチームのリーダーであるブチャラティが主人公ジョルノにかける言葉を想起させる。ジョルノはブチャラティをギャング間の抗争に巻き込み、重い代償を支払わせてしまったことを悔いているのだが、ブチャラティは「これでいい」と言ってジョルノを許す。

「俺は生き返ったんだ…。故郷ネアポリスでお前と出会った時、組織を裏切った時にな。ゆっくりと死んでいくだけだった俺の心は生き返ったんだ。おまえのおかげでな」

 体制に従順な個人は象徴秩序にとって、プログラム・コードとなんら変わらない。一切の抵抗がないのならそこにいるのがその人である必要はなく、あくまでシステムの機能を維持する部品的存在として位格を数量的に還元できるからだ。実際、映画におけるシープル、波風を立てないことを至上の価値とする人々の末路は無惨だ。

 離反したネオを拘束するために、AIが「ボット」という技術によってシープルを強制的にコントロールするシーン。高層ビルの立ち並ぶ都市をバイクで駆け抜けるネオたちに向かってシープルたちが一斉に襲い掛かる。極めつけは「ボット爆弾」だ。シープルたちが高層ビルの窓からネオの乗るバイクに目がけて投身自殺させられるのだ。バイクの駆動音に被さるようにして重い果実が爆ぜるような鈍い音が打ち続くシーンには、妙な現実感が伴う。こうした過剰さによる異化をねらうラナの演出は見事である。

 では、このボット爆弾を私たちの図式の上ではどのように扱えばよいか。とり急ぎこれをネオ自身の主体性の証としての「跳ぶこと」に対比させ、象徴秩序への従属的=手段的な身分の烙印としての「跳ばされること」くらいに規定しておこう。

 ここでネオたちとシープルとの立場の、認識と経験の水準における奇妙な交換が見られることに留意したい。シープルは自分たちをこそ「中立的でクレバーな、成熟した歴史的・社会的主体」として認識しており、彼らの目にネオは「愚かなはみ出し者」として映っている。しかし実際にはもちろんネオは悪夢を潜り抜けてマトリックスを脱出し、シープルの方が権力に都合よく消尽されたのだった。こうした逆転が生じるのは、シープルに「平凡な現実性」として認識されるものが、彼が「お前はボットにすぎない」という耐えがたいトラウマ的現実に直面することを避けるためにそれを蔽い隠す幻想によって構成されているからだ。あるいは映画のようにシープルはネオと出会うことによってボット爆弾としての自己の真のあり方に直面させられるのだとも言える。その望まない外的規定こそ彼らの「現実主義」の本質そのものなのである。

 先述のブチャラティの例においても、ジョルノの登場が物語上「耐えがたい現実への覚醒(同一化)」をもたらす真の否定性として機能している。ジョルノの投げかける「あなた『覚悟して来てる人』ですよね」という問いかけは反語として受け取らなければならない。彼はブチャラティに「お前はギャングではない」という告発を突きつけているのだ。お前は私が憧れたような、覚悟と黄金の精神を備えたギャング・スターではない。子供に麻薬を売り何も知らない者を己の利益のために利用する腐ったギャングそのものだ…。

 ジョルノの指弾は、ブチャラティにギャングとしての不完全性を回復することを求めるに留まらない。ギャングであることそのものが、ジョルノの期待する真のギャングらしさから遠いのであって、今やギャングらしくあるためにはギャングであることをやめる他ないと迫る徹底性を持っている。「ギャングの中のギャング」であるはずのボスこそが最もギャングの理念から遠いのだから、ブチャラティはギャングであることを貫徹するためにギャング組織を裏切らなければならない。

 大河ドラマ平清盛』では平治の乱に敗北し伊豆に流された源頼朝にその心中を「昨日が今日でも、今日が明日でも、明日が昨日でもまるで変わらない日々を私はこの地で過ごす」と語らせていたが、ループするモーダルのように代わり映えのしない日常からの覚醒は別の強力なゴール(目的意識)に身を寄せることではない。既成秩序における象徴的布置を根底から粉砕する新しいものの出現が、「私」自身をそのまま生まれ変わらせるのである。しかもその予兆は人の目に留まらない地味なものかもしれない。マトリックス内では世界の運命を握る人物であるはずのネオが見すぼらしい老人の身形をさせられていたように。

 

 

 

『千と千尋の神隠し』において千尋はどうして「12頭の豚の中に両親がいない」とわかったのか?:千尋①

 千と千尋の神隠しについて、2020年の夏に書いたものを手直しした。長くなってしまったので、読みやすさのために分割して投稿する(g.o.a.tオリジナル版は別に後日上げる)。

 この映画をつぶさに観てもよくわからないところがある。それは以下のような謎である。

 『千と千尋の神隠し』の物語の末尾で、主人公の少女千尋は、異世界で滞在していた油屋を辞めて元の世界に戻るために、油屋の当主であり魔

法使いの老婆、湯婆婆の試練に挑む。「12頭いる豚の中から変身した両親を見つけよ」という問いに答えなければならないのだ。千尋は見事、「ここにはお父さんもお母さんもいない」と喝破するのだが、よく湯婆婆のひっかけを見抜いて豚の中に両親がいないと分かったものだ。

 しかし、どうしてなのだろう?映画の中ではどうして千尋がわかったのか、説明されないまま終わる。観客は「千尋異世界でたくさんの経験を積み成長したから不思議な問いかけをパスできたんだ」といったように強引に納得して映画館を出るのだが、もう少し吟味してみるとその内的な理屈がよくわからないことに気が付く。

 この謎を考えるヒントがある。監督の宮崎駿自身インタビューに答えて「この謎ときはどんな理屈を当てはめようが別にどうでもよいのだ」という趣旨の発言をしていることだ。つまりこの問いにはその実、しっかりと対応す

る答えがない。考えろと言っておいてどうなんだと自分でも思うが、結局よくわからない。だが、間接的な回答の仕方を考えることによって『千と千尋の神隠し』における(反)物語的特異性が浮かぶ上がる。うまく答えられないのだが、補助線を引くことでわからないままに改めて納得できると思う。(よく考えないでなんとなく納得することと、よく考えたうえでやっぱりよくわからないでなんとなく納得することと、あまり変わらないという苦情もよくわかる。でも、それでもやっぱ

りちょっと考えてみてほしいのだ。映画のよくわからなさが一段深いところに沈んで味わい深くなるからだ。)

 先に答えを粗描するなら、千尋に謎の答えがわかったのは、表象的水準におけるストーリーの進行とは異なってそもそも両親は豚になどなっていないし千尋が豚になった両親を救うことがこの映画の目的ではないから、だ。湯婆婆の謎かけは千尋の冒険の代理表現であると考えると腑に落ちる。本当の物語はここまでに全て終わっていて、その象徴的清算の表現としてあの謎かけが描かれている。モグ

ラが地下で目に見えない横穴を掘り進めて、口笛を吹くとトンネルの屋根に当たる地面が一気に穴底へと崩落する様をイメージして欲しい。

 だから見かけ上は豚になった両親を中心にしてすべての登場人物の欲望が編成されており、物語の構造としては誰もその(マクガフィンの)磁場から逃れることができないのではあるが、宮崎によって賭けられている映画の主題はそこにはない。意識の上では「変身を解く」という目的によって流れていく物語が進行

するのだが、画面に現れている物語と対になる伏流、あるいは高速道路に対する「下道」をたどって出口を目指すことが試されているのだ。

 宮崎のねらいを考えるためには、この作品の前作となる映画を見ればよい。宮崎駿監督・スタジオジブリによる製作として『千と千尋の神隠し』の前作に当たるのは『もののけ姫』である。蝦夷の王子アシタカは、邦を守るためにタタリガミを退ける際にやがて彼自身もタタリガミと化してしまう呪いを受けるが、西方の森を治める超越的なシシ神を助けることで比類のない神の癒しの力を受けて回復する。『もののけ姫』は傷ついた者の回復を描く美しい物語であるが、この物語の後に、次の課題が立ち上がる。このように特別な主人公が特別な冒険を経ることで特別な力を得て回復するという物語があったとして、その物語はそれらの条件から疎外されたごく一般的な現実の子どもの前でどのような有効性を持つだろうか。そのすべての条件を失ったところに物語が考えられるのでなければ、現実世界における映画の意義はないのではないか。

 つまり『千と千尋の神隠し』で目指されているのは、「完全に損なわれた弱い子どもが決して成長をせず(強い力を媒介せず)ただ直接弱いまま

に、回復することは可能なのか」という困難な問いに答えを与えることである。

 ここで、千尋が「損なわれている」というのは、どうも彼女が両親から愛されていないだろうことを指している。荻野家は表向き特に問題のない三人家族のようであるが、両親が千尋の方を向いていないので、千尋は家族といてもいつもひとりぼっちで過ごしている。一緒に過ごしていても千尋の心中には寂しいという気持ちが湧き上がってしまう。たとえば千尋の父も母も映画冒頭から豚に変身するまでの間、千尋が繰り返し口にする「制止」に対して一切耳を貸さない。行きたくないから待ってよ、と声をかけても全く立ち止まってくれないのだ。

 千尋は自分が愛されていると自分自身に言い聞かせているから愛を求めて親に近づくけれども、親のほうでは「娘に対する愛」が正しく作動しないことがはっきりするのが恐ろしくて、いつもそれとなくはぐらかしてしまう。トンネルをくぐるときには、千尋は母から「千尋そんなにくっつかないでよ歩きにくいわ」と阻まれる…。親が娘をうまく愛することが出来ておらず、またその愛情の欠如に対して罪悪感を覚えて自分が子供を愛していると思い込み、事態を隠蔽する欺瞞によって一種の「

ハラスメント情況」が形成されているのではないだろうか。

 千尋はこのままでは親のメッセージをどうにも同定できない。親の見かけ上の正常な愛を受け取っても拒絶(罰)に会うし、親の愛の欠如を受け取っても拒絶(罰)を受ける宙吊り状態に追い込まれている。そして自分の感覚に根差した認識能力を自ら否定し生命力を失っているために、千尋はこれほどまでにぼんやりとして鈍臭い退屈な少女なのである。感性を研ぎ澄ましては、千尋はつらくてたまらないのだ。

 これまでの作品と異なり、躍動感あふれるジブリ映画に似つかわしくない千尋が主人公に設定されているのは、アシタカの場合と違って「弱さのうちに回復可能性を掴みとろう」というねらいを彼女が担わされているからである。

 だが両親との関係性において千尋の問題が構造化されているのだとして、その割には千尋は豚になった両親のために特に何の働きかけもしない。たとえば両親を救うための一つの手立てになりえただろう、河の神からもらったニガダンゴはハクとカオナシに飲ませて使い切ってしまい、両親の分が残らずに終わる。そもそも両親が豚になったことが千尋の冒険のきっかけだったのに、両親の筋が脇に追いやられて軽い扱いを受けている。これでは観客は納得しないように思えるのだが、『千と千尋の神隠し』が興行的には成功した映画であることは奇妙ではないだろうか。

 私の考えは、こうである。劇中この豚になった両親の問題は別の形に移し替えられて、そちらの解決が図られているので観客に不消化感が残らないのではないか。そして、その変換された先の課題とは「失われたハクの名を取り

戻すこと」である。どうしてハクの名を取り戻すことを千尋の両親の問題を取り扱うことに代えることができるのかについて、次節以降で説明する。