なぜシャンクスはみすみす娘を見殺しにしたのかーー「ONEPIECE FILM RED」における二つの違和感その2

この記事は前回の続きです。映画のネタバレを含むので閲覧に注意してください。

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 歌声が人々を危機から救済しカタルシスがもたらされるというその全体主義的な筋の進行から一転、推進力を失って墜落したような、呆気のない結末に興をそがれる思いのした観客がかなりいるらしい。確かに『ONE PIECE』物語世界においてシャンクスが持つその巨大なプレゼンスから考えると、ウタが人々の安全を優先して薬を飲むことを拒絶する…すなわち自らの死を受け入れるという展開はいくらか不自然なようだ。

 しかしそれを、ある視点から見れば自然な像を結ぶことができる。それはどこからだろう。ウタと魔王トットムジカとが一体の存在であることはすでに前項で確認したが、では、彼女たちは物語世界にとって何者であるのか。このように問うことから問いの核心に迫ろう。

 作中でトットムジカは「古代から続く人の思いの集合体で、寂しさや辛さなど心に落ちた影」であるとロビンによって説明される。魔王は人々の抑圧された願望が上映されるはずの夢の中で出会うことになる「拒絶すべき悪しきもの」であり、人々はそれに出会うとむしろ夢から現実へと覚醒したくなるものであるのに、それは人の思いそれ自体である。さらには魔王が、現実世界と夢の世界とを結びつけてしまう結節点となる。こうした諸特徴は、精神分析家のジャック・ラカン精神分析理論に依拠しつつ、哲学者スラヴォイ・ジジェクが詳細に論じている「現実界」という概念のそれと完全に符合している(映画自体が「現実界」についての詳細な解説のようだ)。ジジェクによれば現実界とは現実を支えている前提条件であるとともに、それを阻害する要因でもある。それは大きく三つの側面を持つ。

 一つはラメラと呼ばれる、不気味に波打つ肉塊である。それは一定の形式を持たず、絶えず姿を変えて執拗につきまとう。そして不気味な過剰さを持ち、強迫的に動き続ける。もうひとつは、機械的な規定、「ルールはルールだから」と人間的な意味の豊かさを剥奪された「無意味な公式」である。自動機械は人々のどんな事情も無視して同じオペレーションを貫徹する。

 そして三つめは対象aである。ちょっとした細部が気になって、ある普通のものが崇高なものに変わる。恋や相互不信、高度資本主義経済下における消費行動と、私たちの身辺にも氾濫している現象だ。人間に紛れ込んだ見分けのつかないエイリアン、マニアによって高値で取引されるコレクターズアイテム、プレゼンのたびに私を苛立たせる同僚が発するある語がもつ微妙なアクセントのクセ…。私たちはそれをいつも欲望の対象(その欠陥にもかかわらずそれを愛する)と取り違えるが、実際には欲望を起動する原因(その欠陥こそが他のものからそれを分け隔てる)である。それは当人にもコントロールできない異質で過剰な侵入者であり、有機的統一性の完成を阻む不気味な染みである。「それ」があるから統一的な空間が歪むのではなくて、最初から私たちの現実的世界・意味秩序空間には亀裂が走っており、亀裂を糊塗せんがために私たちはつねにすでに空間を歪め、結果として「それ」を生んでいるのである。

 しつこく付きまとう死の予感は、ゴードンがトットムジカを呼び出す禁じられた楽譜をその破滅的な力にもかかわらず捨て去ることが出来なかったという奇妙さと対応するだろうし、まさにその力が「ウタ=死へと至る律動」である映画全体の終末論的構成自体が機械的規定性を想起させる。そして第3の「私はなんだか知らない」という現実界の特徴は、象徴的世界の行き詰まりを解消するためにFILM REDという映画が要請されたこと…欲望を喚起するために事後の時点から回顧的に外傷的な原因が措定された捏造物であることを暴露する。

 ウタとは物語にとって何者なのか、という問いに今このように答えよう。彼女は魔王トットムジカそのものであり、そもそも物語世界内に存在しない人間だ。彼女は自分が存在しないことを忘れている。彼女が自分の不在を思い出してしまうまでのわずかな時間だけ(厳密には115分)彼女は存在するのだ。(ジジェクはこの説明をするためにいつもどこかで私たちが見たことのあるアニメーションの場面を持ち出してくる。ネコが崖を飛び出して空中を走っている。下を見下ろし、足の下に何も支えがないことを発見したときにはじめて、ネコは落ちる。この宙吊りの緊張こそが物語を駆動する原的動因なのだ。)もちろん、ウタは映画のためにでっち上げられたキャラクターだったではないか。ルフィとは実は幼なじみだった?シャンクスの娘だ?そもそも一巻でルフィが仲間に音楽家を引き入れようとしていたのはウタが念頭にあったからである?連載を何十年も続けていま、最初からそうだったことになったのだ。わざわざ言われずともそんなことは全員がわかっている。

 しかし、人物たちの視線があまりにも都合よく配置され、物語がその弁証法的過程を流れるように進んでいくのはなぜだろう。ルフィは、ウタと一緒に過ごした幼い日々を思い起こし、自分たちの関係性を再認識する。またラストシーンにおいて夢の中で「麦わら帽子の似合う男になれよ」と励まされる会話をする。ウタは、エレジアの悲劇の真実を知っていた。残された電伝虫を再生し、偶然、魔王トットムジカに取り込まれた自分自身がエレジアを滅ぼす様を目撃し、シャンクスたち赤髪海賊団がエレジアを滅ぼしたことにしたのは自分の罪を肩代わりした嘘だったという真実を知る。シャンクスはヤソップたちの見聞色の覇気によって夢世界内の映像を垣間見て、トットムジカに対する夢内外からの同時攻撃に成功する。五老星は電伝虫を通じて夢の世界のイメージを観察し、海軍に指示を送り事態のコントロールを測る。なぜ偶然にしてそれらを私たちは目にするのか。もちろんそれが偶然ではなく、初めからまさに私たちのために上映されている映像だからだ。映画自体が罠なのだ。

 漫画『ONE PIECE』において主人公ルフィは何者も置き去りにしない正義を志向し、一切の不自由からの解放のために冒険を進める。しかし、シャンクスが正しく指摘する通り、この世に自由も平等もないのであって、最終的な解決は原理的に不可能なのだ。象徴的現実には亀裂が走っている。海賊は海賊であって、海賊でないものではない。多くのものは全てではない…。その不可能な糾弾を指示する表象としてウタは舞台に上がる。

 ウタは男たちを破滅へと導き、結局彼らは皆してウタを手に入れることができない。ウタのころころ変わる表情、互いに矛盾した瞬間瞬間のヒステリー的仮面は、彼女が自分自身の快楽の犠牲者であり、無意味な命令に従う運命の操り人形であることを示している。

 確認しよう。

①ウタを得る代わりに、彼女の実父は死んでしまう。実父はウタをシャンクスに受け渡す。

②ウタを得る代わりに、シャンクスは名誉を失う。シャンクスはウタをゴードンに受け渡す。 

③ウタを得る代わりに、ゴードンは国を失う。ゴードンはウタをルフィに受け渡す。

④ウタを得る代わりに、ルフィは世界を失う。ルフィはウタをシャンクスに受け渡す。 

⑤そしてシャンクスはウタを諦める。ウタを失う代わりに現実へと帰還する。

 この勝者のいない悪夢のようなゲームに巻き込まれた人間は、ウタを売り渡して罪悪感と共に切り抜けるか、それともウタに固執して一緒に破滅するかの二択を迫られる。だから映画のポスターでウタと共に書かれた台詞は「ねぇルフィ、海賊やめなよ」なのだ。

 これは『ONE PIECE』全ての否定に他ならない。こんな悲劇にもかかわらず彼女は魅力的なのではない。この不可能な物語の起源が最初から捏造されているので、私たちはウタにどうしようもなく惹かれてしまうのである。