原因の根を断つこと――「換喩的世界」としての『シャイニング』論

 今日ではめっきり数が減ってしまったが、私が子供の時分にはデパートの屋上に「アドバルーン」と呼ばれる広告気球が浮かんでいた。気球からは垂れ幕が下がり、デパートで実施される工芸品の展示や物産展などの催し物の案内をしている。通行人が案内の文字を読むことができるのはもちろん垂れ幕が同じ位置に留まって動かないからだが、気球をただ飛ばすだけではそうならない。ガスを充填された気球が浮かび上がろうとするのを、デパートの屋上から張られたロープによって繫留してあるのだ。

 ではもしも、そのロープを断ち切ったらどうなるだろうか。気球はガスの浮力によって上昇し、いつか風に捉まるだろう。そして、デパートの屋上から次第に遠ざかっていく。青空にぽつんと浮かんだ気球が来たるセールの開催を訴えていたとして、それを読んでしまった私たちは当惑するに違いない。「つまり、何を言いたいんだ?」生憎、垂れ幕の文言からはそれがどこのデパートが発出するメッセージであるのかとか、どうしてデパートがそういうメッセージをあなたに送ろうとするのかといった情報が省略されているから、真意は正しく伝わらない。メッセージはビルの上空に浮かんでいることが前提になっているので、気球がそこから離されてしまっては、それを読む人には受け取るべき内容を一意に定めることができない。

 スティーブン・キングによる小説『シャイニング』は1980年にスタンリー・キューブリック監督により映画化されたが、原作者であるキングはこの映画を「エンジンのないキャデラックだ」と厳しく批判した。キューブリックがキングの原作から設定をいくつも変更したことが気に入らなかったのだ。

 キューブリックによる『シャイニング』の改変を許せなかったキングは、わざわざ1997年に権利を得て同作をテレビシリーズ化している。これは、作品の原作者が舞台に出てきて「この作品の真意が誤読されている。本当に伝えたかったことはこういうことなんだ」とお節介にも観客に作品の受け取り方を教授した形になるが、今回考えようとしている私の疑問は、このことの周囲にある。

 映画『シャイニング』における設定の変更は作品の「誤読」や、キューブリックの美的こだわりに基づいた恣意的な「改竄」にすぎないのか。そもそも主人公ジャックはなぜこれほどまでの徹底した狂気に至ったのか。しかもなぜ監督は、ジャックが狂った理由を映画全体のストーリーを用いて明示的に語らせようとしないのか、いや、むしろその理由を語らせまいとしているかにさえ見えるのか。

 作家志望のジャック・トランス(ジャック・ニコルソン)は、職を求めてロッキー山中にあるオーバールック・ホテルを訪れる。これから深い雪のために来春までロックアウトされるホテルに泊まり込んで、設備の継続的な手入れをする管理人の仕事に応募してのことである。採用面接の際、ホテルの支配人アルマン(バリー・ネルソン)はホテルのある「いわく」について付言する。「以前の管理人であるチャールズ・グレイディ(フィリップ・ストーン)という男が、ホテルでの孤独に耐えかねて気が狂い、妻と双子の娘を斧で惨殺した挙句に猟銃で自殺した」のだという。しかしジャックは気にも留めず管理人の仕事を快諾する。

 ジャックの家族は、妻ウェンディ(シェリー・デュヴァル)と幼い息子のダニー(ダニー・ロイド)である。ダニーには超能力がある。その超能力「シャイニング」は、どうやら近い未来の出来事を予見できるらしい。シャイニングは普段、「トニー」というダニーの別人格として現れていて彼と会話することができる。ジャックが仕事の契約を交わしたとき、ダニーは「シャイニング」によって、ホテルのエレベーターから大量の鮮血が溢れ出るビジョンを見る。ビジョンはダニーにオーバールック・ホテルを満たす邪悪な気配を伝えているようだ。

 ホテル閉鎖の日、料理長ハロラン(スキャットマン・クローザース)はダニーとウェンディをホテル内の施設へと案内する。実はハロランもまた幼い頃から「シャイニング」の能力を有しており、同じ能力を持つダニーに「237号室に近づくな」と警告する。

 雪に閉ざされたホテルでの生活が始まるが、ジャックの作品執筆はなかなか捗らず、彼は次第に精神的に追い詰められていく。そしてついにジャックは、謎の存在に命じられるままホテルからの退路をすべて断ち、家族を殺そうとする。「シャイニング」によって異変に気が付いたハロランは、外界からほとんど完全に遮断されたホテルへとなんとか駆けつけるものの敢え無くジャックに殺されてしまう。万事休すかと思われたが、ダニーが機転によってジャックを庭園迷路へと誘い込んで凍死させることに成功する。そしてウェンディとダニーはハロランが運転してきた雪上車に乗ってホテルを脱出する。結局、ジャックを狂わせたものは何だったのかがはっきりと示されないまま、「1921年7月4日」と印字された、オーバールック・ホテルの舞踏会を撮影したモノクロ写真のアップで映画は終わる。写真にはジャックそっくりの男が写っている。

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 何がジャックを狂気へと追いやったのだろう。映画からジャックが狂気に至る「原因」を分析するアプローチは、大別して二つある。科学的合理主義に立ち「病原」への還元を図る方法と、ロマン主義的に狂気の発現へ亡霊の「呪い」を幻視する姿勢だ。例えば、合理主義的還元からは、作家になる夢を叶えるために小説執筆に取り掛かるが捗らないという心理的プレッシャー、豪雪のために外界から隔てられたホテルの閉鎖性、原作ではジャックが前職を失う原因にもなったアルコール依存症の発作、家族を養わなければならないという責任感、家族に対して抱く苛立ちと暴力衝動などが挙げられるだろう。そしてロマン主義的幻視によっては、前任のホテル管理人による家族惨殺事件の記憶がもたらす悪い気の流れ、237号室から漏れ出す悪霊の誘惑、ホテル建設のために墓地を潰されたインディアンの祟り、かつて煌びやかだったホテルに渦巻いていた欲望の残滓などが指摘できる。

 しかし、そのいずれのやり方によっても「雪山で父親が狂気に侵されて家族を惨殺する」という筋書きが、どうみてもあり得そうにないにも関わらずなぜ観客をすっかり納得させるのかを説明できない。つまり、上のどの理由によっても、「納得」まで説明が届かないのだ。

 この謎を考える前に、まずはジャックの狂気について、キングの側から見てみよう。キングは原作小説『シャイニング』を書く上で、特に主人公ジャック・トランスの造形に力を注いだと考えられる。それは、ジャックが現実の作者自身の「身の上」を投影された分身と呼べるくらいに類似する性質を備えたキャラクターとしてデザインされていることによる。キングの生い立ちについて、映画評論家の町山智浩は次のように書いている。

 キングに父の記憶はない。彼が二歳の頃、父はいつものように「ちょっとタバコを買いに行ってくる」と言って家を出て、それきり帰らなかった。

【中略】

 父がキングに遺していったのは不安だけではなかった。

 キングの父はH・P・ラヴクラフトをはじめ、さまざまなホラーやSFのペーパーバックや雑誌を置いていった。それに各雑誌からの不採用通知。父は小説家志望で、いくつも雑誌社に原稿を送り、「残念ながら掲載できません」という通知を受け取り、それを保存していた。父は原稿を保存していなかった。母も読んだことはなかったが、作家になりそこねた理由は知っていた。「お父さんは忍耐が足りない人だったの。だから私たちを捨てたのよ」。その言葉はその後、ずっとキングの耳に響き続けた。

 小説への興味、作家への夢は父からの遺伝だった。では、家族を捨てた性格まで引き継いでいるのでは? その考えはキングをずっと恐怖させ続けた。

引用元:「キングと父になること」『kotoba』2020年夏号、集英社 (2020/6/5)

 

 キングは父親との関係をうまく築くことができなかった。そして、オイディプスの神話のように自分の血肉にかけられた呪いの予感を抱いていた。いつか自分もまた父のように全てに耐えられなくなる日が来るのではないか、突然に小説への興味と作家になる夢と愛する家族を捨ててしまうのではないだろうか。いつもキングは自分自身に対する「一切を投げ出してしまうのではないか」という不安に苛まれていて、その辛さから逃れたくてアルコールに頼ってしまう。この「呪い」と対決するためにキングは、自らの精神の耐久性を調査する思考実験として『シャイニング』を書いたのではないだろうか。父と自分自身の分身としてジャック・トランスという作家志望の男を設定し、彼を、夢と生活と家族のプレッシャーが最大化する状況へと追いやった。情況の圧力が極大化したとき、それに耐えきれず彼の精神は潰れてしまうのか、それとも彼自身の愛と意志による抵抗力が勝って彼を押しつぶそうとする諸力を跳ね返すことができるのか。キングにとって『シャイニング』は、自分を信じられるかどうかを確かめる厳しい実験である。

 だから、原作にあった、ジャックが狂気に打ち勝つシーンをキューブリックが映画から削除してしまったことはキングには受け入れがたかっただろう。その削除されたシーンとは、小説の終盤にあるジャックのセリフである。狂気に駆られたジャックが槌を振り回して家族に迫る。まさに彼が息子のダニーへと槌を振り下ろそうとした一瞬間だけ、父は我に返り、息子に対して「ここから逃げるんだ。急いで。そして忘れるな、パパがどれだけおまえを愛しているかを」と呼びかける。諸力が襲い掛かりジャックの精神を押さえつけるが、意志によって彼はそれに耐えて可愛い我が子を助けるという古典的な人間賛歌の再演が、思考実験の答えとして描かれていたのだ。このシーンを除いてしまっては、観客は救いによるカタルシスが得られないし、映画は物語としての決着を失うのではないか。

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 さらには、キューブリックは「愛と意志の勝利」という「答え」ばかりではなく、「狂気に至る圧力」という「問い」までをも映画から切除しようとしているらしい。それは、幻のエンディングシーンの削除である。現在視聴することのできる『シャイニング』には、143分の北米公開版と119分のコンチネンタル版の二つのバージョンがあるが、実はもう一種類フィルムがあったのだという。映画公開後、劇場において5日間のプレミアの間だけ上映されていたが、監督によって編集、破棄されてしまったので現在では観ることのできない146分の初公開版がそれである。

 特に注意を向けるべきなのは、この146分の初公開版から143分の北米公開版へと再編集される過程でカットされたエンディングシーンである。

 その本来のエンディングは次のような筋だったという。「オーバールックホテルから逃げ延びたウェンディとダニーは入院して治療を受けている。二人をホテルの支配人アルマンが見舞いに訪ねてくる。アルマンはダニーに『君にこれを渡すのを忘れていたよ』と言ってテニスボールを投げて寄越す。」このテニスボールは映画の中で霊的な存在とのコミュニケーションを暗示している。ボールは映画のここまでのシーンで二度登場している。一度目には、映画の序盤で仕事に煮詰まったジャックが気晴らしに壁当てをするのにこのボールを用いる。次に、ホテルの廊下で遊んでいるダニーのもとにどこからか転がってきて、ダニーをいわくつきの237号室へと誘う罠として働く。つまり、削除されたエンディングでアルマンがテニスボールをダニーへと投げて寄越すカットは、彼がホテルの悪霊のメッセンジャーとして働いていることを意味していたのだ。

 この本来のエンディングを削除することによって、ジャックを狂気へと追いやり、彼を操って家族を惨殺させようとした「犯人」をホテルの悪霊と同定することができなくなる。キューブリックのねらいは正にそこにあるのではないか。ジャックの狂気に唯一排他的な外在的原因があれば、ジャックたちは「被害者」でいられる。原作小説のように惨劇の原因が特定され、それとの対決が構図化されることによって、エンターテインメントが観客を満足させるために必要とする明白な物語と解決のカタルシスが得られる。そうであるならキューブリックによる改変は物語の成立根拠を掘り崩すような致命的な悪手に見えるが、原因の切除こそがねらいだとは、どういうことなのか。

 改変の行く末へと目を転じよう。狂気の原因が特定できなくなることによって何が起きるのかと問うのだ。唯一排他的な原因の特定があれば「何が起こってもおかしくない状態」から正常な因果関係が回復され、家族は元の生活へと帰ることができたのだが、それが頓挫する。そして「なぜジャックは狂ったのか」という問いによる原因の探索は継続されるが、次々に対象を変えながら無限に回付され「終わり=特定/一致」へ至ることがない。同じことを関係者の側からみれば、ジャックを狂気へと追いやった罪悪感が浮遊し、しかもなぜ今人が狂うのかわからないままなのだから、誰もが狂いうる可能性へと開かれることになる。外在的原因を切除することによって、全員が悪夢のようなゲームに囚われて知らず知らずの内に自分の「借金」を清算してしまいそうになる状況に置かれる。こうした一致のない宙吊りのリアリティが、私たちが生きる現代における生の感触を正しく描いているから、この映画には説得力があるのだ。

 

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 さて、外在的原因の切除によって話の筋の一本化や意味の特定の試みは座礁するが、その不可能な探索は不可能だからといって停止せず無限に働き続けることになる。雪に閉ざされたオーバールック・ホテルのように、外界との繋がりが断たれたシニフィアン(意味するもの)の連鎖による参照は、情況の内部へと向かうしかない。この、内向する無限参照の、映画における表象は「鏡」である。

 『シャイニング』の劇中では、鏡や、鏡を暗示する対称的な表象が繰り返し登場する。それを以下に羅列する。

 ①ダニーがオーバールック・ホテルを訪れた日、遊戯室で双子の少女と出会う。

 ②ダニーとジャックが客室で「パパは眠らないの?」「ダニーはホテルを気に入ってくれたかい?」と問答をする場面では、室内の鏡にジャックの姿が映り込んでいる。

 ③ダニーが、いつの間にか解錠された237号室に誘い込まれようとするとき、開いた扉の隙間から見えるのは鏡越しの室内である。

 ④鏡を通して、ジャックが237号室で出会った美女の正体が、腐乱した老女の遺体だったことがわかる。

 ⑤ゴールド・ボール・ルームでのパーティでジャックが酒をこぼされた後、手洗い場の鏡の前でグレイディからダニーを「厳しく躾ける」よう忠告される。

 ⑥ダニーが客室の扉に書く「REDRUM(赤い羊)」という言葉は倒語(逆さ言葉)で、その真のメッセージ「MURDER(殺人)」は、鏡を通して字を反転することで読むことが出来るようになる。

 すぐに、映画の中で鏡は常にジャックかダニーと関わる形で登場することに気が付くに違いない。そして閉ざされていたはずの237号室の鍵がいつの間にか解錠されていた謎と、食品倉庫に閉じ込められたジャックがなぜか脱出できた謎が、残されたままでいることを思い出す。ここまで来て、私たちは、映画がそれと明言しないがそうとしか受け取ることのできないような強い信憑をもたらす「ある解釈」にたどり着く。すなわち、ジャックとダニーが鏡写しの存在として描写されていること、有り体にいえば、象徴的現実の水準において両者が同一人物だという解釈である。ジャックの妄想(心的現実)の中で、バーテンダーのロイド(ジョー・ターケル)の提供している酒がジャック=ダニエルであることもその傍証になるだろう。

 すると『シャイニング』は、ある人物が自分自身を殺害するというメビウスの環のような循環構造を持つ物語であることになる。

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 映画『シャイニング』の話の筋は手塚治虫による漫画『火の鳥(異形編)』と類似しているといえる。

 『火の鳥(異形編)』の舞台は室町時代の日本である。左近介は残忍な領主八木家正の娘に生まれたが、女ながら武士として育てられた。父親が病で死ぬことを願った彼女は「どんな病でも治せる」という評判を聞いて家正が治療を頼んだ八百比丘尼を斬ることを決意する。そして尼を殺した左近介が城に戻ろうとするも不思議な力が働いて寺から出られなくなる。八百比丘尼の力を頼って次々に訪ねてくる傷ついた異形の者達を、左近介は尼の代わりに火の鳥の羽を使って癒やすようになる。

 『火の鳥(異形編)』においては、正常な因果関係が停止し物語が循環構造を描いている。左近介は八尾比丘尼を殺した罪を償うために傷ついた者達を癒すが、そもそも何者をも分け隔てなく癒す八尾比丘尼がいるので左近介はその人をわざわざ殺しにやってくるのである。このとき、癒すことによる償い=結果が、殺すことによる罪=原因を追い越して先行している。殺すから償うのではなく、償っているから殺されるという転倒した構造が見て取れる。

 これと同様に『シャイニング』では、ジャック=ダニーはオーバールック・ホテルを二度訪ねることになる。一度目にはダニーがホテルでジャックを殺して罪を被る。そして二度目にジャックとして再度ホテルへやってきて、ダニーの手で殺されることによってその清算をしなければならないのだ。

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 このように整理すると、「何がジャックを狂わせるのか」、「なぜジャックはホテルの主人の立場として迎えられるのか、また、なぜ物語の途中からグレイディと立場の上下が入れ替わってしまうのか」、「なぜダニーはジャックから逃げ果せることができたのか」といった問いを簡単に解くことができる。

 ジャックが狂うのは、ジャックが狂っていなければダニーによるジャックの殺害が正当防衛にならないからだ。だから帳尻を合わせるためにジャックは狂わざるを得ない。ジャックの狂気はあらかじめ勘定に入れられている。

 そして、ジャックの立場の変化、ホテルのことを何でも知っていて「見渡す」ことのできる立場の喪失は、映画の途中でホテルのオーナー権がジャックからダニーへ移譲されることによる。その契機はウェンディがジャックの原稿を読み、「All work and no play makes Jack a dull boy.(仕事ばかりで遊ばない、ジャックは今に気が狂う)」という文言が繰り返しタイプされただけの出鱈目な内容であることが判明することだろう。ジャックは作家の夢という表象が空虚であることを「見られる」ことにより、視線の弁証法に巻き込まれる。作家志望の男というナルシシズム的な見せかけが全くの無にすぎない事実を突きつけられることで状況へと「関与」し、彼は「知っているはずの主体」の立場を失う。映画の序盤にあった、ホテルのロビーでジャックが庭園迷路の模型を覗き込むと本物の迷路を歩くウェンディとダニーが歩いている様子を見下ろすことができるという眩暈のするような映像描写がオーナーとしてのホテルを俯瞰する視線を表すものであるなら、物語の末尾でダニーを追って跛行するジャックがまなざすような、地を這うローアングルショットはゲームのプレイヤーとしての部分的な視線に対応する。

 また、ダニーが雪の上に残る自分の靴跡を消し去ることでジャックの追尾をかわすシーンは示唆的だ。循環する時間のなかでジャックは、過去の痕跡を意味づけようとする未来における解釈の位置に立つことでリビドー的な力を賦活されていたのだが、ダニーがそれを拭い去ることで優劣が逆転する。ダニーの足取りを辿ることができなくなったジャックは未来の視点を逐われて「ダニーのいる現在=ジャックにとっての過去」に滑り落ち、凍えるような同一性の迷宮に取り残される。メビウスの環の中で縮減して内包されていた時間がジャックの元に跳ね返ってきて、彼を「1921年7月4日」という時間へと弾き飛ばし、閉じ込めてしまう。無限化された時間が無時間へと転化するエネルギーを想像すれば、写真に記された日付の不整合はすんなり解消できるのである。

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 コミュニケーションにおける発話内容の意味認識の構造と、体験の反省における出来事の原因認識の構造は類似している。その対象が持つ真実の意味は何かと関心を抱いたときに、それを明らかにしようとする探索が起動し、「一致」をみるまで決して停止しない。だから、それに真実の意味をもたらしている外在的な源泉がその項目と切断されると、自己の内部に参照の目を向けたまま無限に回付され続けるパラドックスに陥る。

 キューブリックはあたかもアドバルーンの繋留を解くように、『シャイニング』における話の筋を改変してジャックに狂気をもたらした原因を特定不能にしてしまう。ビルの屋上を離れていく気球に気が付いた広告担当は慌てて怒鳴り込んで来るが、今やあらゆる風船が宙を漂っているのではなかったか。

参考文献:

 加藤典洋著『テクストから遠く離れて』2020/4/10 講談社文芸文庫

 スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』1995/6/1 青土社