『竜とそばかすの姫』における現実描写について。「現実が仮想を保証する」関係を断つための『U』の仮想自己を可能にする「表現」としてのAs

 細井守監督による最新作『竜とそばかすの姫』の魅力は、現代社会における新しい現実感覚を描き、その倫理的可能性を提示しようとする志にある。そして、その試みのピークは二つある。一つは、トラウマのために歌を歌うことができない主人公すずが、仮想空間における「新しい自己」を得ることで存分に歌えるようになる「解放」の場面であり、もう一つは、やはりすずが「新しい自己」の成功を投げ打って(?)「竜」を救うために「現実の自己」を明かして誠を示そうとする「引責」の場面である。

 『龍とそばかすの姫』の物語上の主たる舞台となる仮想世界『U』においては「誰もがリラックスして集い楽しめるように、最新のボディシェアリング技術を採用し」ており、個人は「As=Autonomous self/自律的自己」と呼ばれるアバターによって仮想世界へ参加することになる。その、『U』が誇る最高のA・Iが行うAsの自動生成とそれをキャンセルする「アンベイル」という特別な技術について、作中人物ジャスティンは次のように語る。

「通常なら、デバイスで読み取られた生体情報は、特殊なプロセスを経て登録したAsに変換されます。ですがこの光(ジャスティンのみが持つ宝石のようなレンズ体から発出される緑色の光)は、その変換を一切無効にしてしまう。オリジンそのものがダイレクトに『U』の空間上に描写されてしまう。これがアンベイルのしくみです。創造主『Voices』しか持てない権限と同じものを私は持ってると、言い換えてもいい」

引用元:『竜とそばかすの姫』2021/6/25 細田守 角川文庫 P.203

 このジャスティンのAsの仕組みについての指摘は、注意深く受け取られる必要がある。ここで「特殊なプロセスを経て登録したAsに変換される」のは「デバイスで読み取られた生体情報」であって「あなた」ではなく、アンベイルによってダイレクトに『U』の空間上に描写されてしまうものが「オリジンそのもの」であって、それは「特殊なプロセスを経て登録したAsに変換される前のデバイスで読み取られた生体情報」でも「あなた」でもない。

 この微妙なズレこそが、細田によって掴まれた、観客が要求するディテールである。ズレは「現代(日本)社会における入り組んだ現実感覚」の再現に由来するものであるのだが、その機微を精確に理解するためには言語構造のモデルを参考にすることが有用である。

 言語学者ソシュールは言語を記号(シーニュ)として捉え、記号はシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)という二つの働きの関係性として存在するという見方を示す。例えば、ライオンという言葉について考える。ライオンという音のシニフィアンが、あの「百獣の王」と呼ばれる「タテガミのある野獣」というシニフィエと結びついている。

 次に、このモデルに従って「メタファー(隠喩)」と「メトニミー(換喩)」という二種類の喩(比喩)の構造を確認しよう。喩はただの記号とは異なって、二つの語の結合である。ライオンの例でいえば、ライオンというシニフィアンがそのままあの「タテガミのある野獣」を表さない場合がある。カメルーンのナショナル・サッカーチームはそのタテガミのある野獣のような強さから「ライオン」という愛称で呼ばれるが、このとき、ライオンというシニフィアンがそのまま「タテガミのある野獣」を表していない。このような言葉を喩と呼ぶ。

 喩はその機能から「メタファー」と「メトニミー」という二種類に大別できる。カメルーンのナショナル・サッカーチームのように意味内容(シニフィエ)を媒介にする語と語の結合が「メタファー」であり、そうではなく、表現形式(シニフィアン)を媒介にする語と語の結合が「メトニミー」である。

 ライオンというシニフィアンが「その名を冠した練り歯磨き製品」を指し示すことがある。これはメトニミーである。その歯磨き粉は別に「タテガミのある野獣」のようではない。獣の持つ何かしらの性質と類似するところがあるわけではなく、これはあくまで表現形式(シニフィアン)を媒介にする語と語の結合である。シニフィアンをSA、シニフィエをSEと略号に置き換えて、メタファーとメトニミーの構造を整理すると次のようになる。

メタファー:「ライオン(SA)」=「野獣(SE)」⇒「強い選手(SE)」=「カメルーンチーム(SA)」

メトニミー:「野獣(SE)」=「ライオン(SA)」⇒「ライオン歯磨き(SA)」=「練り歯磨き(SE)」

 

 メタファーはSE同士のつながりによる結合であり、メトニミーはSA同士のつながりによる結合であることがわかる。これらの喩のモデルに『U』におけるアバターの構造を重ねてみよう。

「現実自己(SE)」=「オリジン(≒生体情報)(SA)」⇒「As(SA)」=「仮想自己(SE)」

 このとき、アバターは、現実自己たるすず本人の存在がそのままAsに結びつくのではないし、仮想空間『U』でさまざまな経験を積む「ベル」という位格がそのまますず本人(現実自己)に重なる(結びつく)のでもない。あくまでオリジン(≒生体情報)がAsに翻訳される。それは表現形式のみにおける結びつきであるから、『U』におけるアバターはメトニミックに生成されているのだといえる。

 作中での現実自己とAsとの対応を確認してみよう。尚、ここでは、細田によって書かれ映画と同時に出版された小説版の記述を参照する。

 まず、ベルのAsはこう描写される。

「非現実的な、桃色の長い髪。海のように深い、青の瞳。文字通り、絶世の美女。そして頬には、まるで刻印されたような、そばかすがある。」

引用元:『竜とそばかすの姫』2021/6/25 細田守 角川文庫 PP.8-9

 カメラが現実に移行して、ベルに声を吹き込む作中現実のすずを写す。

「瞼を開けると、目の前にあるのはシーツの上の、表示の消えたスマホだ。その暗い表面に、日に照らされた自分の姿が映り込む。中学校の頃から着ている色褪せたダサいパジャマ。寝癖のついたボサボサの髪。半開きの目。そして、頬に散らばった、そばかす。それは私をとても憂鬱にさせる。胸がふさがれそうになって、ため息が漏れる。」

引用元:『竜とそばかすの姫』2021/6/25 細田守 角川文庫 PP.13-14

 身体的特徴としてすずとベルが重なっているのは「そばかす」のみである。そのほかのベルとしてのAsの特徴は現実自己と意味的なつながりを持たない。「いつも歌わないすずが、本当は歌が好きで上手だ」という事情を知らない第三者にはベルの正体がすずであるとわからない。

 では、他の人物におけるアバターの事情はどうなっているだろう。

 ルカちゃんとカミシンは次の通りだ。

「1曲目が終わり2曲目が始まると、すらりとした長身の美少女が、アルトサックスを手に前に出てきた。彼女は、キビキビと左右に魅力的なステップを踏みながら、ゆるいウエーブのかかった長い髪を揺らし、少しも乱れずにソロを演奏する。「……かわいい」思わず声に出して言ってしまう。ルカちゃん――渡辺瑠果と書く――の生き生きとした美しさに、ため息が出るほど見とれてしまうのだ。」

「カミシン――千頭慎次郎と書く――は、手にカヌーのパドル、背中に「CANOE」と書かれたのぼりを立て、手当たり次第にアピールしてゆく。まるで敵陣地に乗り込んだ足軽みたいに。」

「ルカちゃんAsは、青い鳥のAsで、アルトサックスを持っている。犬型のカミシンAsが背負うのは、大きなカヌーだ。」

 Asについて、ルカちゃんが青い鳥で、カミシンが犬であることは、やはり現実自己と意味的なつながりがない。(アルトサックスとカヌーという「アイテム」はA・Iによる自動生成以後に獲得したものと考えられる。)

「竜」=恵くんを見てみよう。

「突き出る二本の角。長い鼻面。鋭い牙と爪。特徴はまさに竜そのものであり、印象は暴力的な獣のようだ。それでいて襟を立てた深紅のマントや、スーツの袖から覗く白いフリルは、どこか貴公子的なものを連想させた。この真反対な性質が同居する不思議なバランス。長く縮れた髪の隙間にわずかに見える細く鋭い眼差しは、どこまでもミステリアスにわたしには思えた。」「「あ」ボロボロの背中に、たくさんの模様があるのに気がついた。「あれは……?」《これみよがしに背中のアザをアピールするウザい奴》とフキダシが付け加える。確かめるようにそれを見た。「あんなに、アザだらけなんだ……」」

「黒い服を着た別の少年の姿」「恵くんの乱れた髪の隙間から、固く閉じた目が、見えた。」「吐き捨てるように否定した。」

「父親は、言葉の暴力を恵くんの背に投げかけ続けた。まるで上司がミスをした部下を叱責するように。「おまえさあ、もう消えろ。な、消えろ。価値がないならもう消えろ!!」そのたびに、まるで本当に背中を殴られているように、恵くんの背中は震えた。」

 恵くんは、奥底に言いしれない怒りを堪えつつ、こちらを睨み続けている。

 こちら――、それはもはや私などですらなく、なまっちょろい世間、社会、世界に対してであり、無責任な言葉、無慈悲な態度、無寛容な心、弱者に対しての無自覚な見下し、そしてそれらを隠蔽する欺瞞。恵くんの眼差しは、そのすべてに向けられた刃のように、私には思えた。

「助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける助ける!うんざりなんだよ!!」

 内在する怒りを全て吐き出すように、恵くんは、体を揺らして吠えた。

「もう出ていけっ!!」

 その恐ろしい目つきは、鋭い牙を剝いて吠えたときの、竜そのものだ。私は、あの時のベルと同じく、目を固く閉じて身を縮めるしかなかった。

 丁寧に見れば、現実自己とAsとのつながりはないことがわかる。話し方や行為への現実自己の反映はあるものの、Asは現実の恵くんと切断されている。ただし、すず=ベルの「そばかす」と同様に、恵=竜の「アザ」だけは異質である。

 さて、細田の慧眼は、Asの描写によって「仮想自己」を取り出した点にある。つまりその効果はまずもって、すずとしてできることややりたいこと、やるべきことと、ベルとしてのそれは一致しないし、ベルとして経験したことはそのままにすずという「現実主体」に送られるものではないというズレを描くことである。

 ベルはすずではない。トラウマによって歌うことができなくなったままでいたすずにとって、現実との意味的なつながりが切断されたベルという位格に「乗り込んで行動できる」ことは「解放」である。そこですずによって感じられている「自由」は、たとえば足に障害を持つ人が義足や車いすによって身体を延長して、できることが拡がったときに感じる自由におおよそ似ているが、異なるところがある。すずが歌えないのは、身体のどこかに「部分的」に障害があるのではなくて、存在の「全体」に染み広がっている問題であって、患部(原因)にしかじかの内科的/外科的治療を施せば(代替えの身体的延長を補えば)それが解決するという性質のものではないという点だ。だから、Asという現実自己と「淡いつながり」をもつ仮想自己によって存在を丸ごと置き換える必要があったのである。

 もうひとつ、この手間のかかるAsという設定を用意したねらいはやはり、ベルが自らアンベイルを引き受けてオリジンをさらしたまま「竜」に向けて歌う場面を描くことだろう。

 結論から言えば、この場面は、多くの人がそう受け取るように「素顔を晒すことが倫理につながる」という考えによるものではない。

 

 確かに、一般の『U』参加者・作中現実の人間にとっての受け取りは、「あのベルが実はさえない普通の女子高生だった」となる。そこから逆算して、なぜ顔を晒すのか、「素顔を晒すことが倫理につながる。仮想世界という二次的世界は不確かな嘘なのだから、動かしがたい現実世界による保証が必要なのだ」という前提に基づくものだろうと考える。「仮想<現実」だ。

 あるいは、すずの身近な人(合唱団の、学校の仲間)にとっての受け取りは「あのすずがベルという成功した位格を投げ打った。歌えなかったのにトラウマを克服して乗りこえた。それは「竜」を助けたいからだ」。「ベルとしての「虚」の経験よりも現実世界でのすずと恵くんの経験の方が優先するのだから当然だ」と考えたのではないだろうか。ここでも「仮想<現実」だ。

 しかし、恵=竜にとっての受け取りは、それとは異なる。「さっき電話してきた女が実はベルだった。彼女の言っていたことは本当だったんだ。」となるだろうが、ここで、参照の向きが反対になっていることに注意を向けたい。恵=竜にとってはベルとの経験が、現実世界でのすずとの出会いに先行している。恵には、すずがベルになったのではなく、ベルがすずになったものと映るのである。現実のすずの身元を保証するのは、彼女がベルだったからである。ここでその重みは、「仮想>現実」と入れ替わっている。

 クラスラインでの炎上の場面のように、現実での関係がそのまま反映した仮想世界においても倫理が困難になっていることは細田によって指摘されているのだから、本作が素朴な「現実が仮想を保証する」という認識による表現ではないことは明白だろう。細田は、現実がその確かさを喪失した今、どのように倫理が可能なのかを問うているのだ。それを考える補助線として、現実自己と仮想自己が等値になるAsなる「準先験的生成」が描かれているとみるべきだ。そして、その、あらゆる「現実」が究極の根拠であることをやめた平行的・相対的複数世界における倫理の可能性は、現実の「主体」に代わる責任の帰属先(言論の普遍性への投企の起点)としての「仮想自己」にかけられている。

 実際には、倫理性は、仮想世界における『美女と野獣』の再演において実現する。この「ご都合主義的」な「不可能な愛の奇跡」は、すずの「そばかす」と恵の「アザ」と二人の快癒=現実的解決と結びついているが、すずがメロドラマに参加するのは、彼女が忍を拒絶する自分自身に投げかけた疑問「……私、どうしたいんだろ?」が動機づけているのだと考えられる。次稿ではこの謎を扱いたい。

参考文献:加藤典洋『テクストから遠く離れて』2020/4/10 講談社文芸文庫