ループからの出口を報せる破壊的な存在について:レザレクションズ③

マトリックス レザレクションズ」を観た。前回の記事の続きです。

takayuki0929.hatenablog.com

 

 映画「マトリックス レザレクションズ」においてはネオが空を飛べるのか否かという謎こそが物語を駆動する力であり、「跳ぶこと」が彼が主体性や自由意志を備えているのか、あるいは救世主としての資格を持つのかということの証明として機能している。

 前節ではそれがネオ自身にとってどのように感じられるかという内的現象を考えた。次いでここではさらに、ネオが空を飛べるのかどうかということが、映画の主人公たちと比べたら地味で平凡な生活をしている私たち普通の人、いわばモブキャラクター(端役)としての私たちにとって持つ意味を考える。

 映画の中で「シープル」という言葉が登場する。シープルとは羊(sheep)と人(people)を約めた「羊人間」くらいの、否定的ニュアンスが込められた表現であるが、マトリックスに没入する人々は自分から群羊のように支配されることを望んで夢の世界に閉じ籠っているのだという。

 シープルの揶揄はチャップリンによる「モダン・タイムス」の冒頭、羊の群れがこちらへ走ってくるショットがディゾルブして、通勤する労働者たちが地下鉄の階段を登るショットへと切り替わるシーンに通じている。群れの進路に合わせて移動すれば安全な可能性が高く、何より何も考えないでいられる…。生活そのものに由来する苦痛を私たちは愚鈍と慣れによって辛うじて耐えている。自分自身の浅ましさに対して無知でいる限りで自己の同一性をもって生き永らえているのだとも言える。

 しかし、いつか何かがきっかけとなって、代わり映えのしない日常というループに閉じ込められた自分の在り方に対する疑いが生起することがありうる。ネオたちを外的現実へと導いたバッグスは全くの偶然に、ビルの屋上から跳ばんとするネオを目撃することによって、マトリックス世界という「普通の現実」の内部にありながら例外的に覚醒する。

 その後、仲間を得たバッグスが今度はネオを助けるために彼を探し続けて発見し、赤い薬を飲むよう促す説得は『ジョジョの奇妙な冒険』第5部「黄金の風」においてギャングチームのリーダーであるブチャラティが主人公ジョルノにかける言葉を想起させる。ジョルノはブチャラティをギャング間の抗争に巻き込み、重い代償を支払わせてしまったことを悔いているのだが、ブチャラティは「これでいい」と言ってジョルノを許す。

「俺は生き返ったんだ…。故郷ネアポリスでお前と出会った時、組織を裏切った時にな。ゆっくりと死んでいくだけだった俺の心は生き返ったんだ。おまえのおかげでな」

 体制に従順な個人は象徴秩序にとって、プログラム・コードとなんら変わらない。一切の抵抗がないのならそこにいるのがその人である必要はなく、あくまでシステムの機能を維持する部品的存在として位格を数量的に還元できるからだ。実際、映画におけるシープル、波風を立てないことを至上の価値とする人々の末路は無惨だ。

 離反したネオを拘束するために、AIが「ボット」という技術によってシープルを強制的にコントロールするシーン。高層ビルの立ち並ぶ都市をバイクで駆け抜けるネオたちに向かってシープルたちが一斉に襲い掛かる。極めつけは「ボット爆弾」だ。シープルたちが高層ビルの窓からネオの乗るバイクに目がけて投身自殺させられるのだ。バイクの駆動音に被さるようにして重い果実が爆ぜるような鈍い音が打ち続くシーンには、妙な現実感が伴う。こうした過剰さによる異化をねらうラナの演出は見事である。

 では、このボット爆弾を私たちの図式の上ではどのように扱えばよいか。とり急ぎこれをネオ自身の主体性の証としての「跳ぶこと」に対比させ、象徴秩序への従属的=手段的な身分の烙印としての「跳ばされること」くらいに規定しておこう。

 ここでネオたちとシープルとの立場の、認識と経験の水準における奇妙な交換が見られることに留意したい。シープルは自分たちをこそ「中立的でクレバーな、成熟した歴史的・社会的主体」として認識しており、彼らの目にネオは「愚かなはみ出し者」として映っている。しかし実際にはもちろんネオは悪夢を潜り抜けてマトリックスを脱出し、シープルの方が権力に都合よく消尽されたのだった。こうした逆転が生じるのは、シープルに「平凡な現実性」として認識されるものが、彼が「お前はボットにすぎない」という耐えがたいトラウマ的現実に直面することを避けるためにそれを蔽い隠す幻想によって構成されているからだ。あるいは映画のようにシープルはネオと出会うことによってボット爆弾としての自己の真のあり方に直面させられるのだとも言える。その望まない外的規定こそ彼らの「現実主義」の本質そのものなのである。

 先述のブチャラティの例においても、ジョルノの登場が物語上「耐えがたい現実への覚醒(同一化)」をもたらす真の否定性として機能している。ジョルノの投げかける「あなた『覚悟して来てる人』ですよね」という問いかけは反語として受け取らなければならない。彼はブチャラティに「お前はギャングではない」という告発を突きつけているのだ。お前は私が憧れたような、覚悟と黄金の精神を備えたギャング・スターではない。子供に麻薬を売り何も知らない者を己の利益のために利用する腐ったギャングそのものだ…。

 ジョルノの指弾は、ブチャラティにギャングとしての不完全性を回復することを求めるに留まらない。ギャングであることそのものが、ジョルノの期待する真のギャングらしさから遠いのであって、今やギャングらしくあるためにはギャングであることをやめる他ないと迫る徹底性を持っている。「ギャングの中のギャング」であるはずのボスこそが最もギャングの理念から遠いのだから、ブチャラティはギャングであることを貫徹するためにギャング組織を裏切らなければならない。

 大河ドラマ平清盛』では平治の乱に敗北し伊豆に流された源頼朝にその心中を「昨日が今日でも、今日が明日でも、明日が昨日でもまるで変わらない日々を私はこの地で過ごす」と語らせていたが、ループするモーダルのように代わり映えのしない日常からの覚醒は別の強力なゴール(目的意識)に身を寄せることではない。既成秩序における象徴的布置を根底から粉砕する新しいものの出現が、「私」自身をそのまま生まれ変わらせるのである。しかもその予兆は人の目に留まらない地味なものかもしれない。マトリックス内では世界の運命を握る人物であるはずのネオが見すぼらしい老人の身形をさせられていたように。