『千と千尋の神隠し』において千尋はどうして「12頭の豚の中に両親がいない」とわかったのか?:千尋①

 千と千尋の神隠しについて、2020年の夏に書いたものを手直しした。長くなってしまったので、読みやすさのために分割して投稿する(g.o.a.tオリジナル版は別に後日上げる)。

 この映画をつぶさに観てもよくわからないところがある。それは以下のような謎である。

 『千と千尋の神隠し』の物語の末尾で、主人公の少女千尋は、異世界で滞在していた油屋を辞めて元の世界に戻るために、油屋の当主であり魔

法使いの老婆、湯婆婆の試練に挑む。「12頭いる豚の中から変身した両親を見つけよ」という問いに答えなければならないのだ。千尋は見事、「ここにはお父さんもお母さんもいない」と喝破するのだが、よく湯婆婆のひっかけを見抜いて豚の中に両親がいないと分かったものだ。

 しかし、どうしてなのだろう?映画の中ではどうして千尋がわかったのか、説明されないまま終わる。観客は「千尋異世界でたくさんの経験を積み成長したから不思議な問いかけをパスできたんだ」といったように強引に納得して映画館を出るのだが、もう少し吟味してみるとその内的な理屈がよくわからないことに気が付く。

 この謎を考えるヒントがある。監督の宮崎駿自身インタビューに答えて「この謎ときはどんな理屈を当てはめようが別にどうでもよいのだ」という趣旨の発言をしていることだ。つまりこの問いにはその実、しっかりと対応す

る答えがない。考えろと言っておいてどうなんだと自分でも思うが、結局よくわからない。だが、間接的な回答の仕方を考えることによって『千と千尋の神隠し』における(反)物語的特異性が浮かぶ上がる。うまく答えられないのだが、補助線を引くことでわからないままに改めて納得できると思う。(よく考えないでなんとなく納得することと、よく考えたうえでやっぱりよくわからないでなんとなく納得することと、あまり変わらないという苦情もよくわかる。でも、それでもやっぱ

りちょっと考えてみてほしいのだ。映画のよくわからなさが一段深いところに沈んで味わい深くなるからだ。)

 先に答えを粗描するなら、千尋に謎の答えがわかったのは、表象的水準におけるストーリーの進行とは異なってそもそも両親は豚になどなっていないし千尋が豚になった両親を救うことがこの映画の目的ではないから、だ。湯婆婆の謎かけは千尋の冒険の代理表現であると考えると腑に落ちる。本当の物語はここまでに全て終わっていて、その象徴的清算の表現としてあの謎かけが描かれている。モグ

ラが地下で目に見えない横穴を掘り進めて、口笛を吹くとトンネルの屋根に当たる地面が一気に穴底へと崩落する様をイメージして欲しい。

 だから見かけ上は豚になった両親を中心にしてすべての登場人物の欲望が編成されており、物語の構造としては誰もその(マクガフィンの)磁場から逃れることができないのではあるが、宮崎によって賭けられている映画の主題はそこにはない。意識の上では「変身を解く」という目的によって流れていく物語が進行

するのだが、画面に現れている物語と対になる伏流、あるいは高速道路に対する「下道」をたどって出口を目指すことが試されているのだ。

 宮崎のねらいを考えるためには、この作品の前作となる映画を見ればよい。宮崎駿監督・スタジオジブリによる製作として『千と千尋の神隠し』の前作に当たるのは『もののけ姫』である。蝦夷の王子アシタカは、邦を守るためにタタリガミを退ける際にやがて彼自身もタタリガミと化してしまう呪いを受けるが、西方の森を治める超越的なシシ神を助けることで比類のない神の癒しの力を受けて回復する。『もののけ姫』は傷ついた者の回復を描く美しい物語であるが、この物語の後に、次の課題が立ち上がる。このように特別な主人公が特別な冒険を経ることで特別な力を得て回復するという物語があったとして、その物語はそれらの条件から疎外されたごく一般的な現実の子どもの前でどのような有効性を持つだろうか。そのすべての条件を失ったところに物語が考えられるのでなければ、現実世界における映画の意義はないのではないか。

 つまり『千と千尋の神隠し』で目指されているのは、「完全に損なわれた弱い子どもが決して成長をせず(強い力を媒介せず)ただ直接弱いまま

に、回復することは可能なのか」という困難な問いに答えを与えることである。

 ここで、千尋が「損なわれている」というのは、どうも彼女が両親から愛されていないだろうことを指している。荻野家は表向き特に問題のない三人家族のようであるが、両親が千尋の方を向いていないので、千尋は家族といてもいつもひとりぼっちで過ごしている。一緒に過ごしていても千尋の心中には寂しいという気持ちが湧き上がってしまう。たとえば千尋の父も母も映画冒頭から豚に変身するまでの間、千尋が繰り返し口にする「制止」に対して一切耳を貸さない。行きたくないから待ってよ、と声をかけても全く立ち止まってくれないのだ。

 千尋は自分が愛されていると自分自身に言い聞かせているから愛を求めて親に近づくけれども、親のほうでは「娘に対する愛」が正しく作動しないことがはっきりするのが恐ろしくて、いつもそれとなくはぐらかしてしまう。トンネルをくぐるときには、千尋は母から「千尋そんなにくっつかないでよ歩きにくいわ」と阻まれる…。親が娘をうまく愛することが出来ておらず、またその愛情の欠如に対して罪悪感を覚えて自分が子供を愛していると思い込み、事態を隠蔽する欺瞞によって一種の「

ハラスメント情況」が形成されているのではないだろうか。

 千尋はこのままでは親のメッセージをどうにも同定できない。親の見かけ上の正常な愛を受け取っても拒絶(罰)に会うし、親の愛の欠如を受け取っても拒絶(罰)を受ける宙吊り状態に追い込まれている。そして自分の感覚に根差した認識能力を自ら否定し生命力を失っているために、千尋はこれほどまでにぼんやりとして鈍臭い退屈な少女なのである。感性を研ぎ澄ましては、千尋はつらくてたまらないのだ。

 これまでの作品と異なり、躍動感あふれるジブリ映画に似つかわしくない千尋が主人公に設定されているのは、アシタカの場合と違って「弱さのうちに回復可能性を掴みとろう」というねらいを彼女が担わされているからである。

 だが両親との関係性において千尋の問題が構造化されているのだとして、その割には千尋は豚になった両親のために特に何の働きかけもしない。たとえば両親を救うための一つの手立てになりえただろう、河の神からもらったニガダンゴはハクとカオナシに飲ませて使い切ってしまい、両親の分が残らずに終わる。そもそも両親が豚になったことが千尋の冒険のきっかけだったのに、両親の筋が脇に追いやられて軽い扱いを受けている。これでは観客は納得しないように思えるのだが、『千と千尋の神隠し』が興行的には成功した映画であることは奇妙ではないだろうか。

 私の考えは、こうである。劇中この豚になった両親の問題は別の形に移し替えられて、そちらの解決が図られているので観客に不消化感が残らないのではないか。そして、その変換された先の課題とは「失われたハクの名を取り

戻すこと」である。どうしてハクの名を取り戻すことを千尋の両親の問題を取り扱うことに代えることができるのかについて、次節以降で説明する。