『美と実在』を読む。美による異化作用について

 今度、中学生と佐藤透『美と実在――日本的美意識の解明に向けて――』という文章を読むのだが、論じられているテーマがあまりに難しく、はっきり言って文章の構成もうまくないので、全面的に書き直して論理をはっきりさせ、これをもって図式化して解説することにする。

 美や芸術は私たちを反実用・非日常の別世界へと離脱させる。普段の自然な物の見方を停止し、人の意識を変える開示機能を持つ。その第一の契機は、西洋美術における「人の体験の量的拡大」であり、もう一つは侘茶の美に特に表れている「現実への眼差しの質的転換」の働きである。

 「人の体験の量的拡大」とは、例えばキリスト教芸術の傑作であるバチカン宮殿の天井画である。天井画はそのびっしりとした書き込み、多彩な意匠、逸脱した豊穣さによって日常生活における認識や常識的な思考を停止し、見る人の心いっぱいに「美」を満たす。

 同じ芸術であっても、侘茶の美は、西洋芸術とは異質なものだ。人を別世界へと導きいれるところは共通しているが、豊饒さではなくあえての数的乏しさ、簡素簡略、不均斉によって人に訴える点が異なる。西洋画が派手で多くて大きくて対称的で均衡が整っているのに対して、侘茶の美は、地味で少なくて不完全でバランスが崩れている。たとえば、「利休朝顔」。利休の庭に見事な朝顔が咲いていると聞いて、秀吉がたずねたが、庭にはひとつも咲いていない。機嫌を損ねた秀吉が茶室に入った瞬間、目が醒める心地になった。床の間に、鮮やかな朝顔が一輪だけ、生けてあったからだ。茶椀なども同様で、とても抑制が効いた単調な色彩をしている。

 人は、そのような、あえて豊饒さを差し控えた「切り詰められた現実」を提示されると、「不完全で醜い有限で部分的な物質」の向こう側に、「完全で美しい無限の全体のイメージ」を感じてしまうのである。

 現実世界に生きる人の日常生活はさまざまな物に取り囲まれていて、私たちはそれを利用しながら生きている。生活を円滑に進行するために、人は物に「名前を付ける」ことで概念的把握をして、管理している。溢れかえるたくさんの事物を認識的に処理して、事物と事物の関係を把握し規則化して整理する。だから、見慣れた日常生活に満ちた物質的豊饒さはすべて概念によって括られているので、隅々まで斉一で単調な整理が行き届いている。

 また、たくさんのものをスピーディーに片付けていくために、個々の物に意識を集中させてのめりこんでしまってはいけない。工場のベルトコンベアと同様に、一つの物にかまけて処理が滞ると次に来る物への対応が追い付かなくなって破綻をきたしてしまうからだ。このときの、私たちの理解力は「悟性」と呼ばれる。

 侘茶の美には、こうした実生活における私たちの「現実への眼差し」を揺さぶる力がある。悟性による認識を縮減して実用的態度を停止させ、美を見出す構想力を働かせる。目の前にある一個の些細な事物に向き合って深く見入る意識的集中である「鑑賞」によって、人は美を捉えられる。美はそれを捉える人にとって、事象の新鮮な変化として、現実のもつこれまで気がつかなかった新しい一側面として、感じられる。