『千と千尋の神隠し』と「ほんとうの幸」

1.はじめに

 本稿は、スタジオジブリ宮崎駿監督による長編アニメーション映画作品『千と千尋の神隠し』を扱う評論である。2012年の秋に、早稲田大学のサークルである国語国文学会・児童文学研究部会で行ったゼミ発表の続編にあたる。当時、拙い発表を辛抱強く聴いてくださったみなさん、どうもありがとうございました。あれから8年越しに、僕が映画から受け取った感動を、もう少し詳しく判明に言語化したつもりである。執筆の直接のきっかけは、岡田斗司夫さんによる「ハクの正体の指摘」から思考が働き始めたことと、加藤典洋さんの評論『テクストから遠く離れて』の「換喩的な世界」論、特に『海辺のカフカ』論を読んで、これは『千と千尋の神隠し』ではないか、と受け取ったことによる。思ったより随分大部になってしまったのだが、ぜひ最後まで読んでいただいて、感想を聞かせてください。

2.なぜ千尋は「12頭の豚の中に両親がいない」とわかったのか?

 この映画をつぶさに観てもよくわからないところがある。それは次の謎である。物語の末尾で千尋は油屋を辞めるための試練に挑む。湯婆婆の課題は「12頭いる豚の中から変身した両親を見つけよ」というものだった。千尋は見事に「ここにはお父さんもお母さんもいない」と喝破するのだが、一体どうして千尋は豚の中に両親がいないと分かったのだろうか。ヒントがある。監督の宮崎駿自身インタビューに答えて「この謎ときはどんな理屈を当てはめようが別にどうでもよいのだ」という趣旨の発言をしていることだ。この問いにはその実、しっかりと対応する答えがないのだが、間接的な回答の仕方を考えることによって『千と千尋の神隠し』における(反)物語的特異性が理解できるだろう。先に答えを粗描するなら、千尋に謎の答えがわかったのは、表象的水準におけるストーリーの進行とは異なり、そもそも豚になどなっていないし、千尋が豚になった両親を救うことがこの映画の目的ではないから、である。たしかに豚になった両親を中心にしてすべての登場人物の欲望が編成されており、結局、物語の構造としては誰もその(マクガフィンの)磁場から逃れることができないのではあるが、宮崎によって賭けられている映画の主題はそこにはない。「変身を解く」という動因によって流れていく物語を描きながらこれに乗らず、画面に現れている物語と対になるべき、いわば高速道路に対する「下道」をたどって出口(厳密には入口)を目指すことが試されている。どういうことか。

 宮崎駿監督・スタジオジブリによる製作として『千と千尋の神隠し』の前作にあたる『もののけ姫』において、蝦夷の王子アシタカはやがて自身もタタリガミと化す呪いを受けるが、超越的なシシ神のもつ比類なき癒しの力を授かり回復する。だがこのように、特別な主人公が特別な冒険を経ることで特別な力を得て回復する、という物語があったとして、それらの条件から疎外された現実の子どもの前でどのように有効なのだろうか。そのすべての条件を失ったところに物語が考えられるのでなければ、現実世界における映画の意義はないのではないか。つまり『千と千尋の神隠し』で目指されているのは、「完全に損なわれた弱い子どもが決して成長をせず(強い力を媒介せず)ただ直接弱いままに、回復することは可能なのか」という困難な問いに答えを与えることである。

3.千尋を苦しめる「ハラスメント情況」という「呪い」

 ここで、千尋が損なわれているというのは、どうも千尋が両親から愛されていないだろうことを指している。荻野家は表向き特に問題のないありふれた三人家族のようであるが、両親が千尋の方を向いていないので千尋はいつもひとりぼっちで過ごしている。父も母も映画冒頭から豚に変身するまでの間、千尋が繰り返し口にする「制止」に対して一切耳を貸さない。千尋は自分が愛されていると自分自身に言い聞かせているから、愛を求めて親に近づくけれども、親のほうでは自分の心中に「娘に対する愛」が正しく作動しないことがはっきりするのが恐ろしくて、いつもそれとなくはぐらかしてしまう。たとえばトンネルをくぐるときに千尋は母から「千尋そんなにくっつかないでよ歩きにくいわ」と阻まれる。親が娘をうまく愛することが出来ておらず、またその愛情の欠如に対して罪悪感を覚えて自分が子供を愛していると思い込み、事態を隠蔽する欺瞞によって「ハラスメント情況」が形成されている。千尋はこのままでは親のメッセージをどうにも同定できない。親の見かけ上の正常な愛を受け取っても拒絶(罰)に会うし、親の愛の欠如を受け取っても拒絶(罰)を受ける宙吊り状態に追い込まれている。そして自分の感覚に根差した認識能力を自ら否定し生命力を失っているために千尋はこれほどまでにぼんやりとして鈍臭い退屈な少女なのである。これまでの作品と異なり、躍動感あふれるジブリ映画に似つかわしくない千尋が主人公に設定されているのは、「弱さのうちに回復可能性を掴みとろう」というねらいがあってのことである。

 だが、両親との関係性において千尋の問題が構成されているのだとして、その割には千尋は豚になった両親のために特に何の働きかけもしない。たとえば両親を救うための一つの手立てになりえただろう河の神からもらったニガダンゴはハクとカオナシに飲ませて使い切ってしまい両親の分が残らずに終わる。劇中、この豚になった両親の問題は別の形に移し替えられて、そちらの解決がはかられているので観客に不消化感が残らないのである。その変換された問いとは「失われたハクの名を取り戻すこと」である。

4.ハクは何者なのか?

 ハクという少年は何者なのだろうか。ハクは異世界にある油屋の前で、現実世界から迷い込んだ千尋と出会うなり、一瞬のためらいもなく助けてくれる。油屋があるのは神々や精霊の世界である。河を渡って客船が着岸すると透明だった客人神は実体化し、反対にこの領域にふさわしくない現実世界の人間たる千尋は身体が透け始めてやがて消滅してしまうだろうことがわかる。千尋の身体の透明化はハクが差し出した丸薬を飲むことで治まる。ハクは千尋湯屋へと導く。「忘れないで私は千尋の味方だからね」と優しい言葉をかけるハクに、千尋はどうして自分の名前を知っているのかとたずねる。「そなたの小さい時から知っている」のだという。だが現実世界でハクと千尋はどのように関わっていたのか、当のハク自身も思い出すことが出来ない。ハクは語る。「名を奪われると帰り道がわからなくなるんだよ/わたしはどうしても思い出せないんだ/でも不思議だね千尋のことは覚えていた」。油屋のある幻想世界における水干を纏った少年の身体はどうやら仮のものであり、ハクは現実では別の姿をしていたようだ。ハクはこの世界では「湯婆婆の手先」である。魔法の力を手に入れようと湯婆婆に弟子入りし、言いなりになって使役されているので、湯屋の従業員からも警戒すべき人物だとみなされているし、湯婆婆の双子の姉である銭婆が持つ魔女の契約印を盗み出し死の呪いを受けることになる。

 千尋が現実世界でのハクとの関わりを思い出し、それを伝えることでハクの記憶が回復する。「お母さんから聞いたんで自分では覚えてなかったんだけど/わたし小さいとき川に落ちたことがあるの/その川はもうマンションになって埋められちゃったんだって/でもいま思い出したの/その川の名は……その川はねコハク川/あなたの本当の名はコハク川」「千尋ありがとう/わたしの本当の名はニギハヤミコハクヌシだ」「ニギハヤミ?」「ニギハヤミコハクヌシ」「すごい名前/神さまみたい」「わたしも思い出した/千尋がわたしの中に落ちたときのことを/クツを拾おうとしたんだよ」「そう/コハクがわたしを浅瀬に運んでくれたのね/うれしい……」

 そして湯婆婆の試練を終えたあと、油屋が建つ歓楽街の外れの川岸で二人は別れの挨拶をする。「わたしはこの先に行けない/千尋はもと来た位置をたどればいいんだ/でも決してふり向いちゃいけないよ/トンネルを出るまではね」「ハクは?ハクはどうするの?」「わたしは湯婆婆と話をつけて弟子をやめる」「平気さ本当の名を取り戻したから/もとの世界にわたしも戻るよ」「またどこかで会える?」「ウンきっと」「きっとよ」「きっと」「さあ行きな/ふり向かないで」

 劇中意識的な水準(千尋の理解)において、ハクという人物のプロフィールは次のように説明されている。ハクは、現実世界ではコハク川の主神「ニギハヤミコハクヌシ」であり、その川はすでにマンションになり埋め立てられてしまった。千尋は幼い頃、コハク川で靴を拾おうとして落水し溺れかけたことがあった。そのときに浅瀬へと運んで助けてもらったのがハクだった。その後、異世界を訪れたハクは魔法使いになるため湯婆婆の弟子になった。弟子として師匠には逆らえないので、ハクは湯婆婆にずいぶん汚い仕事もやらされていた。湯婆婆との契約によって名前を奪われたハクはいつのまにか真の「ニギハヤミコハクヌシ」という名を忘れてしまい、元の世界への帰り道がわからなくなってしまった。湯婆婆は弟子であるハクを本当には信用していないので、支配するためにハクの腹中へ魔法の虫を潜ませコントロールしていた。千尋が湯婆婆と契約を済ませたあと、エレベーターのなかで他のひとの目が離れたのに、ハクが「むだ口をきくな/わたしのことはハクさまと呼べ」と答えていたのは腹中にしのびこんだ虫の効力が発動して湯婆婆の統制下にあったからである。ハクは少年の姿にも白龍の姿にもなることができる。銭婆によれば龍はみんな優しくて愚かな生き物なのだという。ハクは千尋のことを覚えていたので、油屋のある街に紛れ込んだ千尋を見かけたときすぐに助けてくれたのだ。今回の一連の事件を経て、ハクは湯婆婆に操作される虫を除くことができた上、もとの名前を取り戻し帰り道を思い出すことができたので、湯婆婆と話をつけて弟子を辞め、近いうちに元の世界に戻ろうと思う。いつか千尋と再会できる日も来るだろう。

 しかし、これらの説明はほとんどすべて「嘘」である。まず、名を失ったので帰り道がわからなくなっていた、という点が端的に誤り(記憶違い)である。釜爺によれば、ハクは千尋のように油屋に突然やってきて「帰るところがないから魔法使いになりたい」と話したのだという。千尋は湯婆婆との契約で名前を奪われたが、ハクの場合は、湯婆婆との契約以前に「帰るところがない」と訴えていたのである。これでは辻褄が合わない。

 また彼はコハク川の主神でもない。我々は河の神がどのような存在であるのか映画を通じて教わっている。千尋とリンが接客を担当した「クサレ神」である。油屋の一同がクサレ神だと思った客は本当はひどく汚されてしまった「名のある河の主」であった。河の神は翁の面だけがつねに実体化している。身体は普段透明な水のようであり、飛翔するときに獣脚と背を覆う毛皮が見える。そして砂金を与えることができる。これら河の神の性質はハクのものと一致しない*1。油屋のある世界では位階の高い神は人間的特徴を持たず抽象的な「面」で表象され、身体も透明(千尋に視認できないものと考えられる)である。位階が下がってきて油屋で寛ぐ神々や、湯婆婆・油屋の従業員たちのような精霊的存在まで来れば実体がはっきりとして揺らがない。さらに存在が希薄で身体が透明化してしまった、路頭に佇立するカオナシの例もある。ハクはそのどこに位置するかといえば、油屋の従業員よりも上で湯婆婆よりも下の当たりだろう。オシラさま・オオトリさま・かすがさまより下の位階にあたるのではないか。第一、ハクが神であるならば、ただの魔女である湯婆婆に魔法の教えを乞う必要がない。

 ではハクは何者なのか。千尋の証言は当たっていないが、真相に肉薄している。千尋が河で溺れた日のことを思い出す場面では「水しぶきに手が伸びる様子」がアニメーションに描かれているが、岡田斗司夫は『千と千尋の神隠し』を詳細に分析した談話の中で、これが幼い千尋自身の手ではないことを指摘している。

 ここで注目すべきは、コンテに描かれた説明文。ここには「サーッと伸びていく子供の手」と書いてあるんですよね。なぜ「子供の手」と書いているのかと言うと、「千尋の手」と書かないためなんですよ。つまり、「手を伸ばしているのは千尋じゃないから」なんですね。そして「それは誰か?」ということを明かしたくないからです。「誰かの手が伸びていって、そして、水の中に落ちた者を助けようとしている」という状況を描こうとしているわけです。続いて、千尋がその時の記憶を思い出すシーンです。ここで、千尋の肩のところを見てください。顔と肩の色が同じです。つまり、これ、裸なんですね。では、なぜ、記憶の中での千尋が裸だったのかと言うと。「幼い頃の千尋が川に落ちた時に裸だったから」です。よく、パンツだけで川遊びする子供がいますよね? あれと同じで、川に落ちた時の千尋は、実は上半身裸だったんですね。しかし、水に落ちた何かに向かって手を伸ばしている子供の手は、Tシャツの袖が見えるんですよ。おかしいですよね? Tシャツを着ている子供が手を伸ばしている。幼い頃、川に落ちた千尋は上半身裸だった。矛盾しています。

引用元:岡田斗司夫『千と千尋の神隠し』を読み解く13の謎[後編]

 これは、靴を拾おうとした千尋の手ではなく、溺れた千尋に向けられた千尋の兄の手である。劇中一切言及されていないが、千尋には兄がいて、その兄が川で溺れた幼い千尋を助けるのと引き換えにして亡くなっているのだ、と、このように理解すれば筋が通るのである。海原電鉄に名残を残すように『千と千尋の神隠し』は宮沢賢治による小説『銀河鉄道の夜』を下敷きの一つにしており、千尋の兄の死は、カムパネルラがケンタウル祭の夜にザネリを助け身代わりに死んだことと比定できる。この推論を補強するものとして、たとえばハクと千尋の別れの場面で「さあ行きな/ふり向かないで」とハクが千尋の手を離した後、しばらく惜しむように中空で手が留まりゆっくりと力が抜けていく描写にヒントがある。これは「千尋に伸ばされた「手」はハクのものである」というメッセージである。

 しかし我々はまず千尋の証言をそのまま鵜呑みにしてはいけなかった。千尋にとって陥溺の経験は精神分析における「トラウマ(心的外傷)」である。トラウマは「被分析者によっては決して言語化できないが、その主体のパーソナリティ形成に決定的に関与しているような経験」のことであるのだから、当然千尋が語りだす、思い出された内容は事実と異なる偽記憶であることに気がつかなければいけなかったのである。さて、これでハクその人に対する追跡はすべて終えたことになるのだが、我々には依然その正体がつかめないでいる。ここからは分析の対象を転じればよい。「抑圧された心的過程は何度も症状として回帰する」ものであり、ハクは姿を変えてほとんどずっと画面に出演している。それは、中心に置かれた語られない・語りえない千尋のトラウマこそ、この映画の主題そのものだからである。

 この節の最後にもう一度、ハクとは何者なのか、という問いに戻ろう。ハクは生前、現実世界では「千尋の兄」であった。コハク川で千尋が靴を流し溺れかかったときに、ハクが千尋を助けて彼女の代わりに亡くなった。もしかすると、自己犠牲の遭難のために、コハク川を司る河の神たる「ニギハヤミコハクヌシ」としての権能をハクが委ねられている、あるいはハクの魂に「ニギハヤミコハクヌシ」の位格が融合したのだと受け取ることもできるかもしれない。しかし、千尋が過去の記憶を思い出してハクに伝えた際に、ハクの白龍の鱗が剥落して人間としての姿が現れたことから考えると、あくまでハクの意識の主体(最も原的な姿)は人間であり、それは本名が明かされない「千尋の兄」の、いわば「原ハク少年」であると言える。したがって、「千尋ありがとう/わたしの本当の名はニギハヤミコハクヌシだ」以降のハクのセリフに事実と異なる部分があるとすれば、ハクの意識的な「嘘」であることを疑う必要がある。

5.三匹の蛇

 油屋の従業員はカエル男とナメクジ女である。これはいずれも本草学における「虫」に分類される生き物であり、そのリストには蜘蛛のカマジイやススワタリも加えられるだろう。しかしこれでは不十分で、蛙・蛞蝓と同格の虫がもう一種ある。「虫拳」で蛙・蛞蝓とともに三すくみを形成する「蛇」である。本草学では蛇もまた虫であるし(マムシなど)、湯屋には蛇も登場している。もちろん、白龍たるハクである。

 千尋は「蛇」に「薬」をもらい、危険から助けられる。お返しとして千尋は「蛇」に「薬」を与える。「蛇」は「毒」を吐き出し回復する。『千と千尋の神隠し』ではこのプロットが三度繰り返される。

 ①千尋は「ハク」に「丸薬・おにぎり」をもらい、身体の消失・記憶の消失から助けられる。お返しとして千尋は「ハク」に「ニガダンゴ」を与える。「ハク」は「魔女の契約印」を吐き出し回復する。

 ②千尋は「河の神」に「ニガダンゴ」をもらい、カオナシに呑まれる危機から助けられる。お返しとして千尋は「河の神」に「薬湯」を与える。「河の神」は「河川に投棄された粗大ごみ」を吐き出し回復する。

 ③千尋は「カオナシ」に「薬湯の札」をもらい、クサレ神に呑まれる危機から助けられる。お返しとして千尋は「カオナシ」に「ニガダンゴ」を与える。「カオナシ」は「カエル男とナメクジ女」を吐き出し回復する。

 千尋との関係(あるいは効果)において、ハク・河の神・カオナシは同じ一つの実体がもつ三つの異なる表れである。受け入れ難ければこれをもう少し穏当に、ハクは境界的な存在であるから、カオナシのようにも、河の神のようにもなりうるその可能性を伝えるものとして、非人間的なふたつの姿が予示されている、くらいに留めてもよい。いずれにせよ、三者はみな等しく蛇=龍としての性質を持つ神霊的存在であるのだと考えられる。その傍証は他にもある。ハクに関する「龍に盗まれた宝を女が取り戻す」というプロットは能楽『海人』に取材したものであり、「超越的な存在が願うものを次々と出してくれるため拾った家がとても裕福になるが、その力をもつ者は非常に汚い(あるいは醜い)ため、やがて邪険にされて追い出されてしまう。すると今まで彼が出してくれた金品は全て失われてしまった」というカオナシをめぐる話の筋は説話「竜宮童子」が原型になっている。

 さしあたって、ここでは「カオナシ精神分析」を検討しよう。斎藤環は「カオナシの心には誰がいるのか?」においてカオナシに対する精神分析的アプローチを試みている。斎藤は、カオナシのもつ「人との深い付き合いを避け、表面的には他人にふるまいを合わせ波風を立てないようにする」行動特性の背景に「のみこまれる不安、自分を失う不安」があると指摘する。

 カオナシが孤立しているのは、他者と関わることで呑み込まれ、自己を見失うことを恐れてのことでなければ何だろうか。…(中略)…精神分析の教えるところでは、幼児が母親との関係の中で母親に投影する最初の恐怖こそが「母に呑み込まれる恐怖」だ。周囲の者を手当たり次第に呑み込みながら暴走する化け物をみて、子どもが次は自分だとおびえるのは無理もない。つまるところ、カオナシは愛着の対象とほどよい関係を結べない。嫌いな対象はもとより、愛着対象すらも呑み込むことでしか愛情を表現できないからだ。彼が持ちうる関係とは、無関係か呑み込む関係か、のいずれかでしかない。

引用元:齋藤環(2016)「カオナシの心には誰がいるのか?」『ジブリの教科書12千と千尋の神隠し文春ジブリ文庫pp.201-203

 これは、ユングの言う「地母神」である。「母なるもの」に対する「呑み込まれる原初的恐怖」が、カオナシが行動を選択するうえでの基本的な動機であることがわかる。「呑まれる」は「埋められる」ことと等しく「心の奥底まで見透かされ全面的に支配される」ことにも通じている。ハクが「埋めたてられた」コハク川の主である、と話したものも、やはりこの「呑み込まれる恐怖」の変奏である。「呑む/呑まれる」ことと「見る/見られる」ことの持つ同質性については、まず端的に彼が「面」をつけた「カオナシ」であることからも示唆されている。カオナシは適切に見ることも見られることも拒絶している。フーコーによる「個人は権力の「目」を内面化し従属化することによって主体化を完遂する」という近代社会における権力の本質を説明した、よく知られた原理から言うならば、カオナシは「見る/見られる」という権力をめぐる闘争関係に参与しないのだから、彼は「主体化」から疎外されているのである。あるいは、権力の「目」を経由して他者をまなざし値踏みする「自己意識」であり、社会的責任を精算する必要が生じたとき、その支払いのために参照されるアカウントとしての「信用=承認」を欠いているのだと言ってもよい。

 もう一点、母性的権力による「目」の内面化という話題について確認をしておきたいことがある。それは、空間に拡張された湯婆婆の「目」である*2。映画序盤でわずかにその働きが示されるばかりであるが、湯婆婆は油屋の客・従業員・そのほかの存在を監視するために鳥を放っている。湯婆婆の私室は油屋の擬洋風建築の上層に設けられているので部屋の窓から街並みを監視できるようになっているし、油屋の風呂場や座敷はすべて吹き抜け構造でつながれているため上階の廊下から従業員が接客をする風呂場や客室の隅々までを自由に眺め渡すことが出来る。「禿」姿をしたハクは湯婆婆の手先であり、湯婆婆の「目」となって働く。油屋で従業員が適切なふるまいをしているか、常に監視している。このように、部屋の設計・窓の位置・目線などの慎重な配置のもとに監視装置としての油屋は組織されており、それこそが湯婆婆がもつ強大な権力の源泉になっている。言い換えるなら、油屋という物語の舞台自体が、母の支配に満ちた空間としてデザインされていることがわかる。

6.転轍された「母殺し」の物語

 千尋にとっての問題は、親に仕掛けられたハラスメント情況の罠のために、生命力を減殺されていることであった。その「呪い」から、特別な手立てに頼ることなく、どうやって回復することができるのかが試みられている。そしてどうやら両親が千尋を愛することができないでいるのは(映画の描写が放つ「鈍い意味」を解釈するならば)、千尋の兄が千尋の命と引き換えにして事故死しており、そのことを許せないでいるからである。しかも、両親はその悲劇的状況を認められないでいる。その死を受容できないので、千尋の兄の存在はあたかも「はじめからいなかった」ように扱われ、千尋に対してはまったく語られない。千尋はそれを知らないのでなぜ親が自分を愛してくれないのかという理由を確認する術がなく、その理由が不在であることによって苦しみが昂進している。当然、自分では知らない自分の呪いを解くことはできないのだから、意識の世界においてはこの呪いを取り扱うことは出来ない。無意識の領域において、本人もそれと知らない呪いを手の届く明るみへと引き出してこれを解く、という迂回が必要である。

 また一方で、千尋の兄である「原ハク少年」もその死がなぐさめられることなく留め置かれている。本当ならば、両親と千尋が彼の死を悼み、その「喪の仕事」を確かに執り行うことを通じて、時の自然な成り行きとしてだんだんと記憶を薄れさせていくという行程を経る必要があるのだ。ハクは両親による死の隠蔽のために「何のために死んだのか」と「彼は何者なのか」という性質を失った亡霊に身を落としている。さらに、もしも荻野家に千尋がいなければ、つまり荻野家が原ハク少年と両親の三人家族であったならば、両親による「ハクの死の隠蔽」はそもそも不可能だろう。ここで、事実を隠蔽するために生じる疚しさの心理的コストは「ほかならぬ千尋のためだから」というエクスキューズによって差し引かれているからだ。このロジックはハラスメント情況におけるその認知的操作の展開と同様である。千尋を囲むいわば王手がかかった状態の困難さは、自らの両親との関係性(ハラスメント情況)に加えて、自分をかばって死んだ兄を苦しめている隠蔽・忘却の呪いもまた「千尋のため」であるものとして設定されている点にある。今、千尋はハクのせいで苦しんでおり、ハクは千尋のせいで苦しんでいるという相似関係にあることを確認しておこう。千尋とハクは両親を中心に置いて等距離に位置し、互いに相手を映したような鏡像的関係にある。

 この隘路を抜け出るための「解呪」の方法として、映画ではまず「子どもが自らのイノセンスを放棄してから母を殺し、そして殺した母のことを心の底から許すこと」が必要であるものと描かれている。どうして私の呪いを解くために、母を殺害した後に許すことが必要なのか。母が自分を苦しめる加害が、本当に仕方なしのことであって、もしも自分が母の立場にあったならば、やはり同様に自分の子を苦しめないではいられなかっただろうことを納得することが、自分の苦しみを和らげるからだ。その認識的転回について、加藤典洋は『テクストから遠く離れて』において、吉本隆明の「存在の倫理」という概念を引きながら次のように説明している。

 ああ、親も同じなのだ、ということ。親も、生物として、同じなのだ、とわかること。これが、親を責められなくなるきっかけとして、自分に現れた了解だった。そう吉本は言っている。そこで親が言葉を呑んで、「言えないでいる」こと、それは、言葉にすれば、こういうことである。

 自分がお前を生んだのは、たしかに勝手に自分がセックスをしたためだ。しかし、自分が一人の女とセックスをしたいと思い、セックスしたのは、自分がそういう存在としてこの世に生み落とされたからである。自分も、お前と同じように、自分の親を、「誰が生んでくれと頼んだ?」と責めることができる。事実、責めもした。しかし、その親も、そういう、成人し、好きな相手をみつけ、その相手とセックスする、セックスした結果、子供がうまれてしまう、という人間が生まれ落ちてもっている「業」(他者への原責任性)を宿命づけられている。…(中略)…吉本はそこにひそむ転回の了解点を、相手が自分と同じ存在であること――同じ問いをもち、同じ苦しみを味わった存在であること――を思い知ること、と言っている。そして、そこから得られる新しい了解を、「存在の倫理」の名で呼ぶことができると言う。

引用元:加藤典洋(2020)『テクストから遠く離れて』講談社文芸文庫pp.189-190

 子どもが、無意識の世界において、姿を変えた母親に出会う。そして、この人は私だ。私はこの人と同じなんだ、と心の底から深く思い知り、相手の存在の中にそうなりえたかもしれない自分自身の存在を確認することで、相手を許せると感じること。それが「損なわれた子」が回復する方法である。その際に、「子どもが自らのイノセンスを放棄してから母を殺し、そして殺した母のことを心の底から許すこと」という手順を踏まねばならないのは、「この人は私と同じである」という同類性の確認のために「私」が、天秤のこちらの皿に、母の「子への呪い=子殺し」と釣り合うものを載せることが必要だからである。

 千尋とハクという「損なわれた子どもたち」が、子を呑み込み、その人格を溶かして殺してしまう絶大な力を持った「母」たる湯婆婆と銭婆の双子を殺害する物語が、『千と千尋の神隠し』のストーリーの原型である。映画には「母殺し」の筋が痕跡として現れている箇所がある。それは、ハクが(湯婆婆に使役されてのことではあるが)銭婆のもとから魔女の契約印を盗み出すプロットである。あの時点で、盗み出した魔女の契約印を破壊すれば、銭婆が持つ魔女としての資格を剥奪することが出来たのではないか。異世界を支配している魔女としての資格の剥奪は、全てを呑み込む母としての資格の喪失と同値であるから、これは擬似的な母殺しである。

 しかし、湯婆婆と銭婆という一対の母親を、千尋とハクという一対の子どもが殺害する母殺しの物語は実現していない。実は『千と千尋の神隠し』は、制作期間と作品の上映時間の都合から、宮崎駿監督が考えていたストーリー構想のままには完成せず、制作の途中で大きく変更が加えられたという経緯がある。プロデューサーの鈴木敏夫によれば、絵コンテが40分ほど仕上がった2000年の5月に宮崎が語ったストーリーの概要は次のようなものだったのだという。

「湯婆婆に名前を奪われた千尋は、健気に働きながら、やがて名前を奪い返すために戦いを開始する。そして、湯婆婆をやっつける。ところが、湯婆婆の背後にはより強い魔女、姉の銭婆がいた。これに対抗するには千尋一人の力では難しい。そこで、ハクの力を借りて二人でやっつける。そこで千尋は名前を取り戻し、豚に変えられていたお父さんとお母さんを元に戻すことに成功する――。」

引用元:『ジブリの教科書12千と千尋の神隠し文春ジブリ文庫pp.58-59

 しかし、これでは制作期間を一年以上延長する必要があるうえに映画の上映時間が少なくとも3時間に膨れ上がる。そこで、宮崎はストーリーを大幅に変えることにした。その構想の転換に伴って、カオナシが大きくクローズアップされることになった。宮崎は次のように説明している。

「だから、当初考えていた展開部分は全部切り捨てて、それ以外でまとめることにしたんです。これが大きな転換点だったですね。その中で、突然カオナシというキャラクターが浮上したんです」「本当に単なる脇役だったんです。橋のたもとで立っているところで最初に千尋と出会うんですけど、それは何の予定もなくてただ立たせていただけなんです。橋の上に立っているヤツは一人くらいいるだろうって。でも、映像になって見たら妙に気になるヤツだったんですよね。そうなるとこっちも『アイツはなんであそこに立っているんだろう』って考え始めるんですよね。『アイツ油屋に入ればいいのにね』とか『友達が来るのを待ってるのかな』とかね。そうするうちに『あれ、使えるかもしれないな』となったわけです。極端な話、突然に役割を与えて『あなたは何者ですか?ちょっと出てきて、この映画をまとめてください』ってお願いした感じですよ。だから実際、本当に『ああ、出しておいて良かった』って思いましたね(笑)。こうして、結果的にカオナシという人物が出てきちゃったんですよ」

引用元:『ジブリの教科書12千と千尋の神隠し文春ジブリ文庫pp.87-88

 この変更によって、千尋とハクが手を取り合って湯婆婆と銭婆を打ち倒すという、わかりやすい「母殺し」のストーリーを語ることは断念され、千尋とハクがそれぞれに「母になり代わって子を殺す」企てが非明示的に描かれることになった。しかもそれは、映画の語るところによれば、千尋とハクが互いに相手のことを、相手が知らぬうちに助けるものでなければならないらしい。知らぬうちに、ということについては後述する。

7.「子殺し」の物語の実際

 「子どもが自らのイノセンスを放棄してから母になり代わって子を殺し、そして自分を「殺した=呪った」母を心の底から許すこと」が、どのように描かれているか見ていこう。

 イノセンスの放棄については、隠喩的な性的交渉が繰り返し描かれている。まず、巷間に流布しているように、客人神を風呂で接待する油屋は性風俗産業や遊郭のメタファーであり、千尋という実名が奪われて「千」という源氏名で働かされている様もやはりそれに符合している*3。夜になると水が満ちて脱出ができなくなる油屋の外堀は「お歯黒溝」に当たるだろう。湯婆婆と契約を取り交わし油屋の従業員となった千尋は自室に戻ると「足がフラフラするの」「気持ち悪い」と愁訴し、腹を抑えてうずくまってしまう。これは千尋が初潮を迎えたことを暗示している。また、傷ついたハクを助けるために奔走する千尋が、手についた「血」をカエル男や坊に示すことで斥けられるのは、「仕事」ができない月経なのだと彼らが受け取ったことを示唆しているだろう。

 「蛇の怪物」であるハク・カオナシ・河の神は、男性の性的欲望の象徴である。白龍・龍神のもつファルス的形態も、亀の首のように伸び縮みし千尋を呑み込まんと脈打つカオナシの身体も、そこから滴る透明な液体も、すべてが男性器を暗示している。そして千尋の介助によって緊張が頂点に達すると龍の頭部から「毒」が放出される。こうした千尋の神々との性的交渉は、油屋が神の疲れを癒す「神殿」であることを思い起こせば、なにも突飛な勘繰りではない。千尋は「人身御供」であり、性的交渉は龍神に対する巫女としての「祭儀」なのである。

 「母になり代わって子を殺すこと」、母になり、子を殺し、子を失った母になることはどのように描写されるか。

 まず、ハクについて。性関係が交替しているのでそれと判別しにくいが、湯婆婆がハクの腹中に潜ませた虫はハクが身ごもった「胎児」である。ひどく傷ついたハクが「ニガダンゴ」を食したところ、口から湯婆婆の虫が出てくる。これは「体内の蛇」と呼ばれる世界に広く分布した民間伝承の怪奇譚の話型を忠実になぞっている。内田樹によれば、この伝説の基本的なプロットは次のようなものである。

 不用意な行動(蛇の精液のついたクレソンを食べる。湖で泳いでいるときに蛙の卵を呑み込む。池のほとりで口をあけて昼寝をする)のせいで蛇(場合によっては蛙、山椒魚、蜥蜴)が人間の体の中に入ってしまう。蛇はそのまま体内で成長し、そしてあるとき食べ物の匂いにつられて食事中に喉を遡って口から出てくる。この最後の場面はしばしば人間に致命的なダメージを与える。

引用元:内田樹エイリアン・フェミニズム」 

 腹の中を食い母体にダメージを与える身中の虫を殺し吐き出すこと。これは、堕胎の隠喩である。ハクは妊娠した湯婆婆の子を中絶するのである。「母になり代わって子を殺すこと」が成就している。

 千尋の場合は、(銭婆の魔法によるものだが)湯婆婆の子である坊を母のもとから奪い去ること、自分を呑み込もうとするカオナシを拒絶し、やはりこちらも油屋から連れて「沼の底」に置いてくること、ハクの腹中の虫を足で踏みつぶすこと、が「子殺し」に当たる。

 銭婆の魔法で姿をネズミに変えられた坊は湯婆婆に自分の子であるとわかってもらえず、千尋についていくことにする。魔法の効力が解けたあとも、坊は好んでネズミのままでいることにしていた。

 カオナシは母に呑み込まれる恐怖を動機にした人物であり、油屋にいるために周囲の人物から際限なくごちそうを与えられ無限に肥大している点で、坊と相似的である。カオナシ千尋に「欲しがれ」と要求をしている。どうやら、カオナシには、相手が自分の出すものを欲しがらないと呑み込むことができないという能力発動の条件があるようだ。そういえば、油屋に入ることができたのも、千尋が「招き入れた」からである。自分から自由に出入りができるわけではなく、こちらも「相手による」という条件が付加されている。カオナシが他者を呑み込むためには、相手に「欲しがらせる」必要がある。お座敷で千尋カオナシが向かい合って話をするシークエンスは、千尋カオナシのどちらが主導権を握るかを決定する闘争だったが、結果として千尋カオナシを拒絶し彼を油屋から連れ去ることになった*4。これらは子を従えた千尋が、母の代理を演じているといえる。

 ハクの腹中の虫を足で踏みつぶすシーンでは、千尋がカマジイから促されて「エンガチョ」をする。その様子を見ていた坊とススワタリたちも、虫を踏みつぶしエンガチョをする一連の動作を模倣している。堕胎とその穢れを防ぐ縁切りが劇化され、繰り返し再現されている描写である。

 第三、自分を殺した=呪った母を許すこと。千尋が銭婆を許すのは、ハクが奪った魔女の契約印を破壊してその力を奪ってもよかったものを、わざわざ返還し謝罪することであり、一方で、ハクが湯婆婆を許すことは、カオナシのように沼の底で銭婆と過ごすことにしてもよかったものを、わざわざ坊を湯婆婆のところへ連れ帰ったことである。

 もう一つ、許しの前には契機があるようだ。それは、母と子の問答である。子が母に「お前が私を殺したのだ」と詰め寄る場面であるのかもしれない。劇中、まず注意を引くのは、本論の冒頭から取り上げている千尋と湯婆婆の「豚の中に両親はいるのか」という問答であるが、それと対応するものとして、実はハクもまた湯婆婆と問答を交わしている。それは、千尋が銭婆を尋ねて油屋を離れた後、「みんな自分でまいた種じゃないか/それなのにあの子は逃げ出したんだよ/あの子は自分の親を見捨てたんだ!」と息巻く湯婆婆をハクが制止する場面である。「まだわかりませんか/大切なものがすり替わったのに」とのハクの問いを助けとして、湯婆婆は坊と砂金が偽物にすり替わっていることに気がつく。この、ハクの問いの正解は、「この中に私の子はいない」である。これらの問答は、フロイトが『快感原則の彼岸』で論じた有名な「糸巻遊び」のエピソードを想起させる。フロイトは自分の幼い孫が、母親が不在のときに飽かずに繰り返し行っている糸巻遊びに気がついた。孫は糸巻を投げやるときに「いない Fort!」、手繰り寄せるときに「いた Da!」と発している。これは赤ん坊が母親の不在というトラウマを象徴化し、みずから何度も再演することで不安を克服しているのである。この糸巻遊びの「母親の不在に対する不安の克服」という理解について、ジジェクが反論を加えている。

 ここでラカンの名高い言葉を取りだそう、「私はあなたを愛する。だがあなたのなかには、私が愛するあなた自身以上のなにか、対象aがある。だから私はあなたを滅ぼす」。ーーこれが、あなたからあなたの存在のリアルな核を摘出する試みとしての、現実界への破壊的情熱の基本的な定式である。…(中略)…

 したがって、我々は標準の配置をひっくり返すべきである。すなわち本当の問題は私(彼女の子ども)を享楽する母なのである。そしてこのゲームの本当の賭け金は、この閉鎖から逃げだすことである。ほんとうの不安は、こうやって〈他者〉の享楽に囚われていることなのである。

 だから、私の母を失うことについての不安ではないのだ。(糸巻き遊びとは)私が母の出発/到着を支配しようとする試みではない。そうはなく(原文ママ)、母の圧倒的な現存presenceについての不安である。私は必死になって空間を切り開こうとするのだ、その空間にて母への距離を獲得しうるように。そうしてやっと私の欲望を維持できるようになる。

引用元:スラヴォイ・ジジェク(2003)『操り人形と小人』蚊居肢訳、「「糸巻き」としての対象a

 ジジェクの言う「母の圧倒的な現存」とは、先般から私たちが検討してきている「母親に呑み込まれる恐怖」と同じものであると考えられる。ここでは深く立ち入らないが、現実界に属し名指せない対象a千尋にとっての「原ハク少年」の死であり、またハクにとっての本名=「千尋の兄であり湯婆婆の子としての証」であって、湯婆婆が情熱をもって両者を呑み込もうとするのは、その対象aを求めてのことである。だから、「いる・いない」を問う「糸巻遊び」としての役割を果たす母子の問答は、母を殺し、母を許し、母による支配=宙吊り状態を打開し「空間を切り開く」ことで「母への距離を獲得して私の欲望を維持できるようにする」ための手順に数えられているのである。

8.「ほんとうの幸」とは何か?

 映画冒頭と物語の終わりで、現実世界と異世界をつなぐトンネルを抜ける場面が反復される。冒頭で千尋が現実世界から異世界へとトンネルを抜け、結末で今度は異世界の側から現実世界へとトンネルを抜ける。しかし普通、映画では、人物の往来を描く場合にはカメラ位置を固定し、向こうへ渡るときに上手(画面向かって右手)から下手(画面向かって左手)へ歩いたならば、こちらへ返るときには人物を下手から上手へ歩かせて、反対の動きになるよう撮影するが、この場面の描画はそうなっていない。トンネルを現実から異世界へ抜けるときも、異世界から現実へ抜けるときも、やはり千尋たちは上手から下手へと歩くのである。これは、冒頭と結末とで千尋は何も変化をしていない、この物語が千尋になんの影響も与えていないことを示している。ハクが、真の名前を失ったために帰り道がわからなくなったように、この作品世界において、記憶は「名前」に帰属する。異世界でさまざまな冒険を経た少女は、「千」という名前でその体験を記憶しているので、千尋という名前を取り返したとき、異世界での記憶は同期されず何もかも忘れている。だから千尋はトンネルの暗がりを恐れる弱気な少女に戻っているのである。この徹底した「フォーマット」は、「完全に損なわれた弱い子どもが決して成長をせず(強い力を媒介せず)ただ直接弱いままに、回復することは可能なのか」という問いへの宮崎の応答であり、ここにふたつの世界が存在し、それらが同等の権利をもつこと、そして千尋が「入口」のトンネルを抜けて架空の物語の世界を通り、もう一つの「入口」のトンネルへと抜けて世界の中へ出ていることを私たちに伝える。しかし、フォーマットを経て、千尋は生きていけるのだろうか。すべては元の木阿弥に終わるのではないか?

 いや、千尋は大丈夫だ。知らぬうちに、ハクの無限の献身がなされているからだ。記憶を取り戻して以後の、ハクの「嘘」を見極める必要がある。

 ハクが千尋の言葉を縁にして記憶を取り戻したことは本当だろう。自分が千尋をかばって死んだ兄であること、親よりも早く死んだ子であるから、また、残った家族による弔いがなされないので、成仏を遂げられず冥界を彷徨っていたこと、しかしそれでも心の奥に切迫する衝動がわずか消え残っており、自分自身を取り戻しそのわだかまりに答えを与えるため湯婆婆の弟子となって働いていたこと、自分が誰かさえわからないけれど油屋の前で千尋に出会った瞬間、考えるよりも早く体が動いていたこと。自分が何のために冥界に留まっていたのか、自分の生命の残滓は何のために使われるべきであるのか、記憶を失っても彼の身体が、「内なる風と水」が了解をしていたこと。断片化したハクの認識が再構築され、すべての平仄が合った。次いで、龍の鱗が剥落し人の姿を現したハクが千尋の手を握るまでの間に、ある決断がなされている。

 ハクのポーカーフェイスに隠された決断の輪郭をなぞるために、ここにふたつ補助線を引く。『銀河鉄道の夜』で、ジョヴァンニとカムパネルラが乗る銀河鉄道の車両に乗り合わせた少女が教えてくれた「バルドラのサソリ」の教訓譚と、太宰治が戦後に書いた不思議な短編小説『トカトントン』である。

 むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。

引用元:宮沢賢治「新編 銀河鉄道の夜新潮文庫、新潮社

 記憶を回復したハクは、自分の生命の残滓は何のために使われるべきであるのか、という問いを自分に向けたとき、それをむなしく捨ててしまうのではなく、黙って千尋にくれてやろうと思ったろう。千尋が真相にたどり着こうとした瞬間、ハクはさっと体を躱して千尋に偽の真相をつかませる。そうすることによって探索行を強制終了して千尋をもとの世界へと帰らせる。そして、その、極限状況における献身はどんなものであるか、を教えるのが『トカトントン』での太宰の返信である。

 太宰治の『トカトントン』は、太宰自身と受け取ることのできる作家が、ある青年から手紙で「戦争が終わって以来、どんな真剣なことをしていても、どこからか金槌で釘を打つ「トカトントン」という音が聞こえてきて妙に白けてしまい手につかなくなる」という不思議な悩みを相談される、その手紙のやり取りをそのまま小説にした作品である。青年の悩みに対して作家は次のように答える。

拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。

引用元:太宰治(1947)「トカトントン」『ヴィヨンの妻新潮文庫

 「兄の命をもらった」という重責を千尋に手渡さないため、千尋が「そんなことは知らない」という無責任な出発をできるようにするため、ハクは自ら身を引く。彼は自分の身体と霊魂とを冥界で焼き尽くす代わりに、消滅した河の神の名を騙る。兄と知らずに恋慕の情を彼に寄せてくれる少女に、自分を河の神と誤認させたまま、現実世界へと送り返す。

 しかし、異世界でそれを千尋に知らせたとして、結局「フォーマット」を経るのだから問題はないはずであるのだが、さらに、なぜ、千尋と私たち観客さえもそれと知らぬうちに、ハクの献身はなされるのか。『銀河鉄道の夜』では、銀河鉄道に乗って宇宙を旅する夢から醒めたジョバンニは、カムパネルラがザネリを助けて死んだことを知る。この、カムパネルラの自己犠牲が、神に対する無限の負債を起点に置く宗教における救済であるとすれば、ハクの献身は、理屈をうまく言語化できないものの、それに対する違和感を表明するジョバンニの側に立つ救済であるからだ。宮崎はカムパネルラの死に跪くザネリに、ハクの犠牲を知りもしない千尋を対置する。この、魂をも灼く献身のうちに、私たちは「ほんとうの幸」の像を受け取る。

 『銀河鉄道の夜』の劇中では、「ほんとうの幸」は、まずカムパネルラが言及する。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか。」

 いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急きこんで云いました。

 ジョバンニは、

(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。

「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。

「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。

「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。

引用元:宮沢賢治「新編 銀河鉄道の夜

 カムパネルラは親よりも早く死んだ者の「業」を気にかけている。亡母は自分の死を許してくれるか、わからないが、「ほんとうの幸」は、誰にとって、という限定をもたず、誰がなすものであっても、誰のためになされるためのものであっても、ただ、よい、と言うことができるから、きっと母も自分を許すだろう、と考える。

 「ほんとうの幸」の言及はもう一か所ある。先の、バルドラのサソリの話を教えてくれた少女と弟、彼らの家庭教師の青年は、実は氷山事故に遭い沈没したタイタニック号に乗船しており、クリスチャンとしての自覚から救命艇の順番を他の客に譲って溺れた死者であることが語られる。そして、彼らがサザンクロスで列車を降りようとした際、ジョバンニと「ほんとうの幸」とは何か、議論になる。

ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。

「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」

「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。

「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」

「そんな神さまうその神さまだい。」

「あなたの神さまうその神さまよ。」

「そうじゃないよ。」

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。

「ぼくほんとうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」

「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」

「ああ、そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」

「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」

引用元:宮沢賢治「新編 銀河鉄道の夜

 ジョバンニが、「ほんとうのほんとうの神さま」と、幼稚な修飾の反復によって伝えたかったのは、救済が知られる限り、それは救済する人と救済される人の(あるいはその外に救済されない人の)身分をつくり、天上と天下を二分し、あなた方はサザンクロス駅で途中下車することになるぞ、ということではないか。ジョバンニは、「知らない」ことによって特別な切符をもち、その効力のために、サザンクロスよりも遠くまで行けるのだ、と。

 ジョバンニの示唆をハクの献身にさし返すならば、次のようになる。ハクが千尋を現実世界に帰すことにしたのは、「母が自分を許してくれるだろう、自分の死を受け入れ、千尋を愛することが出来るだろう。そして千尋は生きていけるだろう」と信じたからである。この心的世界での出来事はすべて出鱈目の妄想であってもかまわない。この冒険はひとつのシミュレーションなのだ。いま、千尋には生きる力が眠っていることが確認できた、この子はぐっすりと眠り、目が醒めた時には回復しているだろう。千尋は、ありふれたニュータウンに、ありふれた両親と住む、愛想と意気地を欠いたつまらない少女である。彼女ははじめから死んだ兄など持たないし、はじめから両親から愛されぬ苦痛に苛まれてなどいない。ハクは、千尋が気がつかぬうちに、「兄の死」の痕跡を千尋の中からそっと拭い去る*5。『千と千尋の神隠し』は125分かけて、やっとスタートラインに到達するという、一般的な人間にとってほとんど無用の物語が、内側から描かれた映画である。

注)

*1:河の神の性質は、すべて偽物であったものの、カオナシの性質と一致している。

*2:湯婆婆の声優を務めた夏木マリは、アフレコの最初に宮崎駿から「とにかく顔が大きい人だから、よろしくお願いします」と強調されたことを語っている。これは、カオナシの対位に強力な「顔=目」を備えた湯婆婆が存在することを示すエピソードではないか?

*3:油屋では「子殺し」が頻繁におこなわれるので、「鶏になれなかったひよこ」のための神であるオオトリさまが、すし詰め状態で湯船に浸かっているのかもしれない。

*4:水が湧き立ち体積を膨張させる油屋を離れ、冷たく落ち着いた沼の底に移ることで、カオナシの欲望は鎮静し、ただしく環境に適応できるようになる。

*5:人知れないその善の効用は、冒険から得られた経験値は、どこに行くのか。坊だ。千尋たちの代わりに坊がその恩恵に浴することで人間的成長を遂げる。その祝福は上空に浮かび上がる「涙」として、表象されている。