『父と暮せば…』論――死者との対話による内在的救済

あらすじ:昭和23年の広島。美津江は友達をみんな原爆で亡くしてしまった。美津江はひとり生き残った負い目からひとめぼれした恋を封じ込めようとする。父・竹造は彼女を励ますが、実は竹造もまたすでに死者なのだ…。

 メディアミックス華やかなりし今日、あるメディア(知覚経験)が持つ特性を考えることの重要性が増している(あるいは「授業」の?「学年だより」の?「飲み会」の?)。

 あとがきに、井上さんは演劇の固有性について、こう書いている。小説にも詩にも移せないもの=演劇的時空間とは、「台詞を作り出す土台になる機知、劇場そのものがもともとから備えている機知のこと」だ。それは例えば「劇中劇」であり、「黒子」であり、追跡者が対象を追い越してしまう「過剰さ」である。

 本作において、それは「一人二役」と「姿をもたないものが、見える」というマジックにある。死者に対して申し訳ないからと自らに恋を禁じていた若い女性があるときふっと恋に落ちてしまう。彼女の内面では、「しあわせになってはいけない」と戒める娘と「恋を成就させてしあわせになりたい」と希う娘との分裂が生じている。その対立のうち、「願う娘」のほうを父が演じるという結構と、死者たる父が見えるというマジックが、ここでの演劇的時空間だ。

 「王様ランキング」から続く最初の私たちの関心は、この、オルターエゴとの内的対話に向かっていたのだった。ここまでみてきた作品からより高級な部分、付け加えられている重要な工夫がある。それは、オルターエゴが「死者の表象」をとって現れている点だ。死者は当然、この世の存在ではない。この世の存在ではない死者がこの世に紛れている混線状況は、不自然なことだ。あるべきものはあるべきところに返されなければならない。だから、必然的に、劇は死者の葬送へと向かって動いていくこと(つまり、マクガフィン)になる。死者が正しく死ななければお話は終わらないということだ。…しかしどうやって?

 天災で死んだ人間の遺族は、「なぜ死者が、私ではなくその人が、死ななくてはならなかったのか」という理由の不在に苦しむことがあるという。たとえば、電柱が倒れてくる。電柱は隣り合って歩いていたあなたの友人の上に倒れ、あなたの上には倒れなかった。ここで電柱が倒れてくるのはどちらの頭上でもよかったのであり、友人が死ななくていけない理由がないことは同時にあなたが生き残らなくてはいけない理由がないことを示さないではいない。「なぜ彼/彼女は死ななくてはいけなかったのだろう。私はどうして生き残ってしまったのだろう。」これが現実の被災者にとって、また生き残ってしまった私たちにとって、切実な問いとしてある。当座、僕の答えをご案内すれば、それは「無」だ、ということだ。彼は「無駄死に」だ*。こう言ってもよい。彼を無駄死にさせることによってしか、生き残ったあなたは呪いから救われない、死者は死の国へと帰っていかないのではないか。

 説明しよう。まず、死んだ人の死の原因、事態の幻想的主体を仮構する。彼/彼女は電柱(コロナ)によって殺された。電柱という主語が必要なのは、事態の幻想的主体があれば死の「真相」がわかるからではない。というのも、まさに電柱に殺されつつあった死者の心情はぜんぜんわからないからである。あるいは無念であったかもしれないが、あるいは「本望」であったかもしれない(ないけど)。それを確言することは本人がいない以上、もう誰にもできない。電柱という「殺人」の主体を仮構することによって何が起きるのかといえば、「なぜこんなことで死者は死ななくちゃいけなかったのか」という疑問が喚起されることになる。犯人という表象をとると死者は本当はまったく死ななくてもよかったことがクリアに見えてくる。死者をなぐさめるのは、いや、死者を前にするわたしたちがなぐさめられるのは、死者の死の「偶有性」である。別様でもあったかもしれない死者の死そのものがわたしたちを救うのである。彼らの別様な死の潜在的可能性は無限にある。だから彼らを想うことは終らない。終らない死者の想起こそが生き残ってしまった人間の務めであり、またその存在の根拠であるのだとしたい。この過程を経て、はじめて過去を過去のものとする道が開かれる。

 死者はやがて過ぎ去る。どんなに深く死者のことを愛していても、人間は死者の記憶よりもアクチュアルな生活の中で次第に彼らのことを忘れていく。まるっとすっきり忘れられれば、回復することが出来る。けれども、また忘れかかった時分に、眠りに落ちそうなところで「ふい」の覚醒がやってくる。それがあの「なひてあんたが生きとるん。うちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか」の変奏たる「お前だけが幸せになるのか」という、美津江が受けた呪いだ。自分で自分の恋を否定してしまうなんて、悲しいことだ。

 こちらも、僕なりの「シャナク」を用意している。僕たちは誰しも自分の内に「そんなこと知らないよ」という無責任な声が響く場所をもっている。これはそれをコントロールしようとしてもうまくいかない…というかその性質からして、統御しようとするその人自身に対して「そんなこと知らないよ」と言ってその手をすり抜けていってしまうものだ。この無責任な声は人間にとってポジティブなものなのではないだろうか。それは私の同一性にすきま風を吹かせる。私自身の連続性・一貫性を停止し、たえず他者化してしまう。「父と暮せば」では、この私性は美津江・竹造の「軽さ」(フリッパントさ)として現れている(井上さんの言を借りるなら「ユーモア」だ)**。竹造はいつも冗談を言うし、鼻歌を歌っている。しかし、この軽やかな饒舌さこそが、美津江をかろうじて世界に接続する係留索なのだ。

 結末において、凍り付いた美津江の心を温めるのは竹造の問いかけである。「おまいの勤めとる図書館もそよなことを伝えるところじゃないんか。」「人間のかなしいかったこと、たのしいかったこと、それを伝えるんがおまいの仕事じゃろうが。」だが、美津江にとって、原爆による愛する世界すべての焼尽という「かなしいかったこと」に対して、「たのしいかったこと」は釣り合うだけのものがあるのだろうか。ある、我々の疑念に反して、天秤は水平を示すのである。凡庸な日常の他愛ない軽いユーモアが、同時に底なしの絶望から人間の魂を救済する重みをもっている。

 ただし、これまでに見てきたように、それはあくまで「私」の「影」によって何気なく差し出されるものでなければならない。美津江には勤務する図書館にも親切に気を配ってくれる同僚はいくらもいただろうが、しかし彼らではだめなのである。内鍵は部屋の内側からしか解錠することができない。自閉に陥った人を外へと誘うためには、私性から出発する倫理によって筋道を立ててあげる必要がある。まずここでは、究極的には本人自らの救済を経由することなしには、社会化などということはありえないのだということを確認しておきたい。

*お分かりの方はお分かりだと思いますが、この論の骨子は加藤典洋敗戦後論」ですね。

**熱に浮かされたような饒舌な語り口はハードボイルドの寡黙さと対照をなしている。つまり同じ原理(死者とのつながり)を隠しているのだ。霜栄「駿台文庫 現代文読解力の開発講座」の序文には『ライ麦畑でつかまえて』のオマージュが用いられているが、必然性をもたないこれなどは理解を欠いた誤用の典型といえる。