『王様ランキング』論――「影との対話」で進む人情噺

あらすじ:ある王国にボッジという王子がいた。巨人の両親のもとに生まれたが身体が小さく非力で、耳が聞こえず言葉も話せないのでみんなからバカにされている。いつもどこかに出かけてはパンツ一丁で城に戻るので、大方追いはぎにでも会っているのだろうとささやかれている。しかし、ボッジが目玉のついた影のような生きもの「カゲ」と出会ったことで、運命の歯車が動き始める…。

 この物語は、要するに「人は見かけによらない」という驚きによって動いていきます。ボッジは本当に情けなくて、どうしようもない「見かけ」をしている。人の評判も最悪です。でも「カゲ」と一緒に物事の裏側へ回ってみると、ちょっと違う事情が見えてきて、全部「状況がそうなるだろう」という意味と理屈があってそうなっていることがわかってくるんですね。ボッジは誠実で不器用なので、ものすごく正直にやっている。気の毒で肩入れしたくなってくる…。たしかにそりゃあ世間というものは、善悪とか権威とか競争とかそういう「筋」や「理」で以て回っているのだということはよくわかる、わかるんだけど、それだけじゃ人は生きられないのだから、せめて慎ましく生きられる程度にはこいつが報われてもいいのではないか、と「カゲ」が(読者を代弁するように)怒ったり泣いたりしてくれます。というわけで装いはファンタジー作品ですが、『大工調べ』のような人情噺だと思って読んでいただければ幸いです(カゲはあんまり頼りにならないけど)*。

 それで、僕が気になっているのは「影」という表象についてです。例えば、村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』でも「影」との対話が重要なモチーフになっていますが、影は自分の分身(オルターエゴ)であり、私と記憶を分かち持つ存在です。したがって、影との対話とは自分自身との内的な対話に他ならず、影の饒舌さは自己分裂の深さを表していると言えます(影に言わせず自分で言えばいいのだから)。

 今日たまたま今敏監督の『パプリカ』(米津玄師の元ネタ)を観ていて、やはりオルターエゴであり社会的意識によって抑圧された無意識の欲望=夢世界内におけるアバターとしての「影」という描写が出てきました。症候化したトラウマ的な夢を分析していくと、私を殺しているのは私自身であることが明らかになります。人々は、情けない・認めがたい・やましい「私」を、否認することによって殺してしまう。しかし(だから?)、私を生き直させるのも、もうひとりの私なのです。影が、「私」の自己実現を見届けることによって、分裂は止み症候は癒え見慣れた日常的風景のうちに帰還します。その「絶対的な孤独=独我論的自閉」から出発しながら「他者としての言語秩序」へと歩み出る物語のパターンに、僕は惹かれてやみません。**

*そういえば上下を切る「落語」自体、自己内対話劇ですよね。

**と、考えていたら、『世界の終り』の末尾はそうではなかった…如何に先駆的で如何に重要な作品かわかりますね。あまり読まれていない気がするけれど。