「情況内現実」について

 以下、中央大学の過去問で、安富歩・本條晴一郎著『ハラスメントは連鎖する――「しつけ」「教育」という呪縛』部分を生徒と共に読み、議論した結果僕が考えたことです。

 「誤解」と「嘘」は異なる。誤解とはつねに、意識されることなく思わず知らずに間違った認識を持っていることであり、間違っていること自体にも気がついていないという「二重の誤り」である。嘘は、嘘をついている人が自分の発話内容は間違った内容(他のものと一致しない、など)であることを意識(自覚)することができるし、自分のついている嘘に支配されずに物を考えたりさらに重ねて発言をしたり行動をすることができる、ということである。

 大問一問四のE「親から押し付けられた理想や規範を自分自身のものだと思い込んでしまうために、そうした理想や規範とは異なる方向を示す自分本来の感覚を自分自身の感覚として受け入れられなくなってしまうということ」、これが本文15段落「子供は、自分が本当に受け止めた感覚を否定して、親の求める虚像を演じていれば、親に愛してもらえると理解する」と矛盾するのではないか、という指摘に対する応答の途中なのだった。ここで、「思い込んでしまう」は「誤解」にあたり、「虚像を演じる」は「嘘」に当たるのだから、両者は不一致だ、という質問者の前提がある(と塩屋は理解している)。アルノ・グリューンの「正常」のメカニズムをもう一度説明すると、親に愛されるために、親に与えられたモデル(お受験モンスター)をとりあえず仕方がないので引き受けて演じているうちに、いつしかそれが演技であることが忘れ去られて一体化し離れられなくなってしまう、という恐ろしい事態である。被ったお面が素肌に張りついて剥がれなくなり顔の皮膚と一体化してしまう(手塚治虫火の鳥太陽編』参照)ことに似ているし、学級集団から求められて演じているうちにキャラの思考回路が自分自身のものと見分けがつかなくなりのみ込まれてしまうことに似ている。「それは嘘である」という意識の留保(距離)がしだいにつぶれてしまうのである。

 この事態の周辺にある事情をもう少し説明すると、「嘘」だとわかっていても、わかったままにその「嘘」に親よりも子の方が強く支配される(お受験モンスター的にふるまってしまう)という意外な事実があることが指摘されている。大澤真幸による「アイロニカルな没入」という現象の説明である。大澤はカサノヴァの喜劇という寓話を引く。「カザノヴァは、例によって、田舎娘をわがものにしようとした。彼は純朴な娘を騙そうと、権威ある魔術師の振りをしてみせたのだ。彼は魔術師の格好をして、地面に、「魔法の円」と称するものを描き、訳のわからない呪文を唱え始めた。と、そのとき突然、嵐になって、稲妻が轟音とともに光ったのである。これに驚いたのは、娘ではなくカザノヴァのほうであった。彼は、このタイミングで嵐になったのは、ただの偶然の一致であることをよく知っていた。が、彼は、あわてて、ほとんど反射的に、自分が描いた、嘘の「魔法の円」の中に飛び込んだのである。この行動が示している、彼の「信」の内容は、「雷は彼の冒涜的な行為への神の天罰だ」というものである。」詐欺師はそれが詐欺であることをよく理解しながら、そのことが原因になって田舎娘よりもむしろより強固に詐欺に支配されることになる。むき出しの偶然的な・無意味な現実にさらされるよりは、詐欺という物語枠組みのなかにいたほうが好ましいと思ったからである。

 「誤解」についてもう少し考えてみよう。たとえば、ことわざ「捕らぬ狸の皮算用」に対しては、まだ狸の捕獲が叶うかわからないのにすでに確実に手に入ると考え、先走って狸が捕れた後のことを考えている愚かさを皮肉る言葉である、くらいの説明がされる。皮算用をしている人は、狸が捕れることしか頭にない。まだ狸が捕れるかどうかわからない(別様の可能性がありうる)ことは彼(女)の意識に上らず、狸の入手がすでに決定していて動かしがたい事実である、一面的で排他的な事実であるように感じている。

 と、以上のように描写してみるけれども、この説明では「捕らぬ狸の皮算用」の当人にとっての情況内的現実(本人にとってのものごとの見え方)をうまく言うことが出来ていない。彼は、「すでに動かしがたい」とか「それが一面的で排他的な事実である」というふうには感じない。単に思わず知らずのうちに「狸は捕れるものだ」と思っているだけで、「さてこれから狸が確実に捕れるだろう」ということも特別意識されない。今、彼の頭を占めているのは飽くまで、捕れた狸皮をどうやって売りさばくかということであり、それにいくらの値が付くか、ということである。意識の焦点が「狸捕獲の是非」ということの上で結ばれないところに、彼が先走って皮算用をしてしまう愚かさの直接の原因があり、それがこのことわざの要旨であるわけだ。

 「捕らぬ狸の皮算用」における「皮算用」をする当人の主観的現実をうまく描写できないという問題の検討が喚起するのは、そもそも一般に、現場における当事者の渦中における生々しい認識(みずみずしい現実)はそのままには言語的に描写しえないのではないか、という疑問である。

 また、さらに言うならば、それは皮算用をしている当の小商人自身の手によっても十分に説明することは不可能である。「捕らぬ狸の皮算用」という言葉において語られるその瞬間(作中現在)、彼は間違った認識でいるが、間違ったことに気がつかないでいるところに情況の特別な性質があるのであって、つまり、気がついていないことをどうやって話題にできるだろうか。誤りがあることに気がついて、描写することができるタイミング(事後の時点)では今度はすでに、「ただそれしかありえない」という可能性の一本道は見えなくなってしまう。

 誤解に没入している人(精神疾患など)が、そこから脱するためには結局、「そうではないのではないか」というゆさぶり(意識化・吟味の契機)が外から持ち込まれるほかない。このことの延長線上に、価値や意味の認識的真正性や倫理的普遍性の追及不可能性が待つのではないか、と筆者は年来、頭の片隅で考えてきた。正しさを検証する契機が外からやってくるほかない性質を持つ(後だしじゃんけんでひっくり返される)のだとすれば、(たとえば学校教育における)社会化の努力や、国語科における読解の努力は、むなしい。

 これから考えていくことの結論を先取りするなら、内的合理性から出発して、「私にはこう思える、こうとしか受け取ることが出来ない」という見え方、現実の感触をいつも自分なりに吟味する視線をあわせもち、「きっとみな同じ状況に立てばそう受け取るはずだ」という信憑(普遍性の確信)の下に「どうしてそのように思えるのか」人に説明すべく自分の見え方を語り合うことが、その語り合いの場において普遍性が実現する、ということだ(ほぼ、加藤典洋の普遍性観に依る)。以上のことから僕はこうした「渦中の言葉」をその誤謬可能性において、聴くに値すると考えている。

 最後に、この考えは、福沢諭吉の「社会関係の自由化」の議論にかなりの程度重なることを確認したい。福沢によれば、社会関係が自由になれば精神も緊張を強いられるので人々は自分を相対化して価値の多元性を承認し「惑溺」から自由になることができる。権力が分散し社会関係が複雑化し価値基準が相対化され観点が多元化していく不断の過程を指して福沢は文明と呼び進歩とする。ここに言う進歩とは事物の繁雑化に伴う価値の多面的分化であり、福沢は社会関係の複雑多様化の過程をどこまでも肯定し祝福したのだ。議論による進歩のその前提として、他説に対する寛容を用意しパティキュラリズムの排除すべきであるなどの主張は、福沢の社交(人間交際)や演説討論に対する異常な熱意と相俟って、人々の交渉関係をあたうかぎり頻繁にし観点をなるだけ多様化しようとする、ほとんど衝動的なまでの欲求を物語っている(丸山真男福沢諭吉の哲学』)。

 多忙さに負けず、いつも渦中における議論の煩雑さを保証することを考えたい。